第九話「シンリンセイカツ1」
目を開けた瞬間、喉が焼けるように痛いことに気がついた。
寝起きの乾燥、なんて可愛いレベルじゃない。砂漠に丸一日放り出されたあとみたいに、喉の壁が張りついて動かない。
息を吸い込むたびに、そこが擦れてチリチリとした痛みが走った。
洞窟の天井には、まだほの暗い光苔の緑。視界がぼやけていて、何時間眠っていたのかも判然としない。身体も重い。
昨日、いや、もう昨日なのかどうかも怪しいが、あのゴブリンとの死闘と、魔石の吸収と、土木工事まがいの穴掘りで全身がぎしぎし言っている。
「……水」
言葉にならない声が、喉の奥でひっくり返った。
ここで初めて、自分が“完全に水の確保を忘れていた”ことに気づく。
食料よりも、魔石よりも先に、まず水だ。
狂気じみた躁状態が魔力熟練度を急上昇させたのはいいものの、渇水に関しては完全に忘れていた。
ただ、水がなければ人は死ぬというのに、焦りは不思議とこなかった。生存本能のアラートは鳴っているのに、それを無視できる程度には、今の僕は昨日までより冷静だった。
魔力の流れ、洞窟の温度、空気の湿度……。
魔力を通して、全てが、少しだけ“見える”ようになったから。
というのも。
能動的技能である『網膜』に対し、同じ効果だが、精度の落ちた受動的技能の『第六感』が芽生えていたのだ。
「水脈があるということだけは分かる」
そんなこんなで土魔法『アース・支配統制』を発動。これまで使ってきたのは、足場崩しや落とし穴もどきのための“面の魔法”だったけれど、今日はそれを“線”にして使う。
不思議と今の僕にならそんな芸当ができるはずだ、と天啓が降りてきていた。
魔力を、指先から細く伸ばし、砂利の隙間へ送り込む。触れた石の硬さ、土の水分、空洞の有無――情報が薄く返ってくる。第六感で得た情報と整合する部分と、穴の空いた部分を精査していき――
――乾燥、乾燥、乾燥。
何度か方向を変え、少しずつ深く“潜らせる”。
すると――指先に微かな抵抗。
――湿り気。
「……あった」
声が自然と漏れる。僕は魔力をもう少し流し込んで、土の密度を調整する。魔力の流れを“針”から“匙”に切り替えて、薄い壁を削るイメージで。
じわ……っと土が崩れた。すぐに、細い水の筋が、土の間からにじみ出てくる。
透明で、匂いもほとんどない。少なくとも、飲めない水ではなさそうだ。
「助かった」
手で受けて、少しだけ口に含む。喉に落ちていく瞬間、身体が勝手に震えた。ひどく冷たいのに、こんなに甘く感じるのかと驚く。喉の痛みが少し和らいでいくと、それだけで生き返った気がした。
水脈をそのままにしておくのはもったいない。僕は小さく土魔法を使って、洞窟内に“簡易の水皿”を掘った。くぼみに水が溜まっていく様子を眺めながら、胸の奥にじんわりとした安堵が広がる。
「これでしばらくは持つな」
言葉が自然とこぼれた。
昨日の“死にかけていた自分”が、ほんの数歩だけ遠ざかった気がした。
◇
一ヶ月が経った。
食べることのできるキノコ、木の実の発見だけでなく、鹿を仕留めて食べる経験も積んだ。
久しぶりの肉ということもあり、本来なら固くて美味くもない鹿肉を食べた僕は――数日間下痢に苛まれていた。
クラスに居た雑学博士の女子が言っていた『鹿には寄生虫がたくさんいるんだよ』といううんちくは、食べる前に思い出したかった。
だけど、この一ヶ月で僕は大きく成長した。
魔法鍛錬から始まり、魔力操作の巧拙を追求し、第六感によって『人間の干物化』という危機を脱していった。
その後は鹿を狩るゴブリンを襲って漁夫の利を決めたり、そのゴブリンから魔石を回収したりして――僕は累計で三回レベルアップしていた。
ゴブリンの魔石一つではレベルアップと言えるほどのブレイクスルーは発生しないようになっていて。
それが意味するのは森林のレベル帯を僕が超えつつあるということを示している。つまりゲームのようにもっと強い敵に挑もう、という指標になっているのだ。
だから、僕は洞窟を出る決心をした。フェンリルという『外れ値』には勝利を掴めていないけれど、彼がいたおかげで鹿や栗鼠を無秩序に襲う熊や狼が寄らないのだろうという考察は事実として残っていた。
そんなフェンリルのテリトリーから脱する。
「ひとまず東に進もう」
太陽の角度で、だいたいの方向が分かった。初日はただ逃げ回るだけだった森も、今は“地図化”されている。
洞窟の入口に立ち、僕は深呼吸をひとつした。森の空気は、今日もどこか甘く、濃い。昨日は恐怖で何も感じなかった香りが、今日は微かに違って感じる。
森の奥をどんどん歩いていく。遠ざかるマイホーム。数刻歩いたところで、僕は未探索領域に辿り着く。
その瞬間――。
胸の中心――“魔力の炉”のあたりが、じくん、と小さく脈動した。『第六感』のサインだ。『網膜』より『精度』は低いが、危険を察知する『速度』だけは鋭いこの勘が示すのは――。
「――来た」
『網膜』をとりわけ強く意識する。
目を閉じて、呼吸と一緒に魔力を薄く散らす。洞窟内では何度も練習した動作だが、外の森では今日が初めて。
空気の層が、一度だけ震える。全方位に向けられた魔力の糸が、木の根、岩、土、草――あらゆる物質に触れ、微かな“反射”として返ってくる。
そして――
「何か、いる。今まで見たことのない魔力の大きさだ……」
一点だけ、返ってくる波の“重み”が違った。そこにいるのは、動いている。人間の体重に、近い。少なくとも、僕の中では“希望”と呼べてしまう値だった。
「人……?」
口に出した瞬間、胸の奥がひりついた。マイカ、ケイタ、そして母。
――会いたい。
――誰でもいいから人間に会いたい!
その感情が、胸を締めつける。
が。
次の瞬間、僕は自分の頬を軽く叩いた。
「違う。期待しない」
それを否定するのも、同時にわかった。この世界の生態系、これまで遭遇したモンスター、洞窟の構造……。
――ここで人間がいる確率は限りなく低い。
「大方、ゴブリンだろうな」
声に出すと、逆に腹が座った。僕は手を握りしめ、索敵の反応の方向へ目を向ける。
「でも……行こう」
人である可能性は低い。
けれど――ゼロじゃない。
そしてもし本当にゴブリンでも、逃げるか、倒すかは僕が決めればいい。魔力炉の奥で、熱が静かにくすぶり始めた。
森の奥で、何かが生きている。
それを確かめるために、僕は一歩、枝の散る地面を踏みしめた。
◇
未探索領域に踏み出すと、空気の密度が一段階変わった。
湿り気と日差しと土の匂いが、肌にまとわりつく。フェンリルの存在した領域の乾いた静けさと違い、身探索領域の世界はやかましい。
鳥の声。風。虫の翅音。小動物の走る微細な振動。それら全部が、今の僕には『情報』として流れ込んでくる。
一ヶ月前とは違う。僕は“読める”側の人間になりつつあった。サバイバルが成し得た野生の勘がそれを後押しする――。
魔力を散らすと、森が地図に変わった。気配の強弱、重さ、動きの癖。どこに何がいるか、輪郭だけが浮かぶ。
「やっぱり、人じゃないか」
天邪鬼な心情を吐露し、怒りへと転化させる。
『網膜』による極細の魔力網に返ってくる波は、人の質量には少し足りない。体格も、背格好も、肌の質感も、体重も――モノクロの世界だから色はわからないけど、着ている服の形状からゴブリンのそれだということは見るまでもなく明らかだった。
「入り口、数、三。動きは遅い。見張りか」
僕は呼吸を整え、足音を消すように歩幅を短くした。
一ヶ月の猶予は、僕を“狩人”に変えた。
弓は使わないで魔法で狩猟をする亜種ではあるけれど――無闇矢鱈に突っ込まない。焦らない。索敵し、観察し、位置を確定してから動く。これを守って狩猟を続けている僕は、間違いなくハンターの部類に入る。
木の幹に手を添え、もう一度『網膜』を薄く広げる。魔力の波紋が、樹皮の凹凸をなぞり、枝葉を抜け、地面へ散った。
「みっけ」
輪郭がはっきりする。前方二十メートル。背の低い影が三つ。洞窟の目の前に立っている。足取りが重いのは――武器を持っているからだった。
位置関係は三角。真ん中が一番動きが鈍い。たぶん荷物持ちか、未熟な個体。
僕は、無意識に口角がわずかに上がった。
――一ヶ月前の僕なら震えてたな。
今は違う。
脅威は脅威だが、勝算の見える相手だ。
慎重に、大木の影に身を寄せ、
魔力を極細い糸にして前方へ伸ばす。
ゴブリン特有の“体表のざらつき”が、糸越しに伝わってくる。皮膚にびっしりと貼りついたような魔力の膜。その膜の“厚み”で、強弱もある程度わかるようになった。
魔術師でもない限り、逆探知をすることはできないと言うのは経験則が裏付けているから、安心。
だとしても安全性を担保するために、『網膜』を発動する地点を飛び飛びにして追えなくなるように制御している。
(やっぱり三匹。小規模な群れの外れだ)
「よし」
声は、驚くほど落ち着いていた。
一ヶ月かけてようやく掴んだ、自分の“生存パターン”。逃げるだけの狩られる側から、状況を選ぶ狩る側へと、ほんの少しだけ変われた実感。
「まず一匹目は確実に落とそう」
僕は治った右手をわずかに振り、指先に魔力を『点』として集める。
湿った空気の中、見えない熱が細長く揺れた。
――フレイム・極小弾。
これだけで倒そうなんて思わない。
牽制と撹乱。初動を乱せれば十分だ。
呼吸を一度、深く沈める。標的の位置を改めて確認し、僕は静かに――森の奥へと歩み出した。




