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第九話 いつか果たされる約束


 開け放した窓から冷たい風が滑り込み、布団も掛けず眠っていた全登(てるずみ)は身震いして目を覚ました。

 室内は闇に沈み、外からは虫の声が聞こえる。

 その姿を見た事はないが、鈴虫を少し低くしたようなこの声を聴くと不思議と心が落ち着いた。


 どうやら、昼の間ずっと寝ていたらしい。

 目が覚め次第ここを発つつもりだったが、一晩山を捜索したツケは相当に大きかったようだ。

 全登は己が体の老いに一人ため息をつく。


 起き上がり、素足を床に下ろすとひやりと冷たい。夏場とは言えゴンドは標高が高く夜は冷える。

 草履を履き、壁に立てかけた刀を腰に提げる。

 正直に言えば、ネビュラに来てから刀が必要となった試しはない。それでも体に染みついた習慣は抜けなかった。


 自室の戸を開き、廊下へ出る。

 家の中は既に静まり返っており、しんとした冷たい空気が闇と溶け合い(こご)っている。

 足音を殺して台所へ行き(かめ)に汲まれた水を掬って飲むと、(かわや)のある屋外へと向かう。


 頭上にはいつも通り、満天の星が月無き夜空を我が物とばかりに埋め尽くしている。

 家を取り囲む木々が額縁のようにその星空を切り取り、そしてその下に同じように空を見上げる人影があった。


 「やあジュスト。起きたんだね」

 人影はこちらに気がつくと小さく手を挙げた。

「少々寝過ごした。寄る年波には勝てん」

 そう返すと、クレドはいつも通り穏やかな笑みを浮かべた。

「お前も落ち着いたようだな」

 全登の言葉にクレドは人差し指で頰を掻く。

「……面目ない。君にもアムラスにも、コハクにも。分かってるんだ。誰も悪くないって事も、せめてあの子の前では平静でいなきゃって事も。だから……本当に、ごめん」

 頭を下げるクレドに全登は黙って首を振る。「謝罪など必要無い」と。

「旅支度は出来ているよ。でも、一つお願いがあるんだ」

「なんだ?」

「旅立つのは明日の朝、コハクが目覚めてからにして欲しい。君はきっと、黙って出ていくつもりだろう?」

「……苦手なんだ、別れは。泣かれるのもな」

 クレドは笑顔のまま黙って頷き、再び夜空に目をやった。

「心配ないよ。あの子は強いから。僕なんかより、ずっと。けれど――だからこそ、きちんとお別れをしてあげて欲しいんだ」

 琥珀色の瞳が星を映して輝く。

「ヒスイは、出来なかったからね」

 それは自ら心臓に突き立てるような言葉だった。

「……分かった。明日の朝発とう」

 ジャラ、という金属音がし、差し出された手にクレドは目を向ける。

 その手からぶら下がっているのは、星明かりを受けて鈍く光る銀のロザリオだった。

「……それは、君の大切な物だろう?」

「だからこそ、お前に託す。そしていつか、琥珀(コハク)が大きくなったら渡してやってくれ。この世界で我が主に祈っても届くまいが――それでいい」

 クレドは逡巡してから、ロザリオに手を伸ばす。

「……分かった。これは預かっておくよ。だから、いつでも取り戻しに来てくれ」

 そう言って、鎖を握りしめた手を胸に抱く。

「俺は厠に行ってからまた寝る。お前ももう寝ろ。精々早起きして朝餉(あさげ)の支度をし、俺を盛大に送り出せ」

 その場を去りながら全登が少しばかりおどけて言うとクレドがさも可笑しそうに返す。

「ああ、腕によりをかけるよ。友の旅立ちを祝して」

 全登は振り返る事なく小さく手を挙げてそれに答えた。


 ゴンドで過ごす、最後の夜が静かに更けていく。



 朝食の最中、コハクは目の前に迫る別れを察したかのようにずっと全登の膝の上にいた。

 全登もそれを受け入れ、いつもより具の多いスープを眼下の丸い頭と大きな狐耳に溢さぬよう神経を使って匙を口へ運んだ。


 クレドもアムラスもいつものように振る舞ってはいたが、どうしても拭い難い重苦しい空気が食卓にのしかかっていた。


 いよいよ食事を終え、クレドから荷物の中身の説明を受けているとそれを物珍しげに眺めていたコハクが口を開いた。

 その目の下は赤く、泣き腫らした跡が残っている。

「ジュスト()どこかへ行っちゃうの?」

 全登とクレドは思わず目を見合わせる。

「コハク、ジュストは――」

 クレドの言葉を目で制止して、全登は自ら言葉を紡ぐ。

「――そうだ。俺はヒスイを、お前の母を取り戻しに行く」

 コハクはその言葉を咀嚼するように、ただ黙って全登の目を見上げている。

「……じゃあ、かえってくる? おかあさんと?」

 暫くの沈黙の後に出てきたのは、率直な問いだった。

「必ず、ヒスイともう一度会わせてやる。約束しよう」

 全登の静かながら力強い言葉に、クレドは思わずその横顔を見た。

 

 ――彼は、自らがここに戻るとは約束しなかった。


 いや、出来なかったのだろう。

 彼は決して、果たせぬ約束など交わさない男だと、クレドは思い知っていた。


 「たくさん食べて、大きくなれ。それが(わらべ)の仕事だ」

 大きな鞄を背負い、ゴンドの出口で全登はコハクの頭をわしわしと撫でた。

 耳をパタつかせてキャッキャと喜ぶコハクから手を離し、アムラスを向く。

 コハクは離れゆく温もりを追うように、自らの頭に両の手を置いた。

「伯爵にせっついておけ。早く異端者を滅ぼせ、とな」

「……ああ。私自身も、全力を尽くす。あなたから教わった事を活かしてみせる」

 全登は頷き、クレドに視線を移す。

「昨日も言ったな。お前は、お前と琥珀の事だけを考えて生きろ」

「……うん。約束するよ。コハクを、守り抜くと。そして――」

 クレドが深くその頭を下げた。

「ヒスイを、どうか救ってくれ。コハクの為に」

「この身命を賭して、果たそう」

 全登はそれだけ言うと三人に、ゴンドに背を向ける。

「世話になった」


 朝日を受け旅立つ男の背が朝霧の中に消えるまで三人は無言で見送り続け、唯一コハクが啜る鼻の音だけが朝の空気を震わせていた。

 

 そして約束は果たされる。

 

 ――四百年という、遠い旅路の果てに。


 

 

 



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