第十話 闇へ沈む
公都の裏路地を男の悲鳴が切り裂き、次いで金属音を鳴らして短剣が石畳に落ちる。
――男の指と、鮮血を絡み付かせて。
「またハズレか」
全登は刀に付いた血糊を拭い、辟易して言う。
剣を交えれば分かる。この男は標的足り得ぬと。
「ぐ……貴様が……”アルヴの異端狩り”か」
黒衣の男は必死で右手を押さえながら声と、精一杯の虚勢を絞り出す。
「そんな名が付いたか。ならば、いよいよだな」
全登は男を見下ろしながら、しかし男を見てはいない。
「……ネビュラ救世教は……貴様を許しはしない……いずれ……あの方々が……女神の鉄槌を……下す……」
これまで幾度も聞いた台詞だった。
「もう待ちくたびれた。早く下せ、その鉄槌とやらを」
言いながら刃を振るう。切先が男の左手を正確に襲い、その指を三本斬り落とす。
「ッ!!……ガァァァァア!!!!」
獣の如き声を上げ両の手を胸に抱くように蹲る男を冷徹な眼が見下ろしていた。
「行け」
短い言葉が冷たい刃のように首筋を撫でる。
激痛で涙に滲む視界。浅い呼吸。遠のく意識。
それをなんとか上へと向ける。
すると、二つの眼がこちらを見下ろしていた。
二つの、黒い、光が。
ゾッ――と総毛立ち、男は弾かれたように立ち上がると駆け出した。
血を流したせいか体が重い。薄らぐ意識は痛みに引き戻される。
しかしその全てを忘れて、男は走った。
女神に誓った忠誠も、あの方々の恐ろしさも。
静寂が戻った裏路地で全登は刀を鞘に収めると、目を閉じて一人佇む。
クレドたちと袂を分かち、早四年の月日が経った。
未だその目的は遠く霞み、身体は日々老い衰えてゆく。
されど、焦りはすまい。
精神を、技を、刃を研ぎ澄ませていずれ来たるべき時を待つ。
オービスへ、そしてヒスイへと繋がる唯一の可能性。
それが向こうからやって来る、その時を。
薄暗い酒場の片隅、粗末なテーブルに全登は一人の男と向かい合っていた。
外套を脱がず、目深にフードを被ったその男は無精髭を生やし、顔は憔悴しきってているがどこか隠しきれぬ気品を纏っている。
「戦場では髭を当たる暇も無いか」
全登が麦から造られた安酒に口をつけてから言うと、フードの男――アムラスは自嘲するように笑った。
「……震えるんだ……手が……。刃物を……自らに向けると。この手で斬った彼らが……この手を掴んで私の首を……そんな夢ばかり見るんだ」
テーブルの上に置かれた右手は強く握りしめられてなお、小さく震えている。
無理もない。
アムラスの気性は生来、戦士のそれではない。
しかし運命は非情にも、彼を戦場へと引き摺り込んだ。
――アルヴァン辺境伯の死。
全登がゴンドを発った後、伯爵は対異端者の最前線たるここアルヴの町を拠点に周辺地域を鎮圧。
いよいよもって南下し、聖地へと駒を進めんとしていた辺境伯軍はたった二人の異端者により壊滅。伯爵及び、多くの側近が戦死した。
正しく、青天の霹靂であった。
アムラスに降りかかったのは父の死と、辺境伯の肩書き。ボロボロの軍と、重過ぎる重圧だった。
幸か不幸か、彼には軍才があった。
父の死の報告を受けアルヴへ急行したアムラスは、途絶しかけていた領内の執政権を掌握し、即座に軍を立て直した。
その後の数年は防衛と内政に注力し、現在に至る。
アムラスは酒を一気に呷ると盃を置き、手を開いて見せる。
「……酒が入ると治るんだ。震えも、恐れも」
皮肉に上げた口角が引き攣っている。
「髭は整えておけ。領主がその有り様では兵も民も動揺する」
領主としての責任と、重圧。
アムラスを押し潰そうとしているものを、痛いほどに理解できる。限界が近いという事も。
だからこそ、掛けるべき言葉は同情や慰めなどではあり得ない。
何故なら彼は決して逃げる事は出来ないからだ。
「……君の言う通りだ。つくづく、私は領主の器じゃない」
「以前俺もそう思っていたが、考えを改めた。お前でなければ領内は総崩れだったろう」
その言葉でアムラスは少し肩を下ろし、小さく息をついた。
「……そろそろ行くよ。これから中央の官僚と会合だ。……これは先月分の報奨だ」
硬貨の詰まった革袋をテーブルの下から寄越す。
「……多いんじゃないか?」
ずしりとした感触に思わず訊ねる。
「異端者八人に、野盗が五人。今月から報奨金を上げたんだ」
「そうか。ならいい」
綺麗な所作で立ち上がり二人分の支払いを済ませてから酒場を出るその足取りは、ここに来た時よりは幾分軽くなっているように見えた。
一人残り、ちびちびと薄い酒を飲んで店を出る頃には外はとっぷりと暮れていた。
いやに静かだ。
このアルヴの町は前線に位置する都合上、荒くれた傭兵が多く滞在しており、正規軍が駐留しているにも関わらず治安が悪い。
酔っ払った傭兵連中も客引きの娼婦も姿が見えない。
全登は宿への道を外れ、裏路地へと入る。
浮きが沈んだ、その瞬間を逃さぬように。
そこかしこに出来た水溜まりを避けながら裏路地を進む。
「ワタリビト、アカシ・テルズミ」
正面から地が震えるような声が投げかけられた。
それはこの世界では捨てた名だ。いや――たった一度だけ名乗ったか。
薄暗い裏路地に、その巨躯が浮かび上がる。
頭からは二本の鋭い角が生え、白目の無い真っ黒な瞳がこちらを見下ろしている。
その手には槍のように長い柄を持つ戦斧が握られていた。
恐らく牛人族だろう。
しかし目の前に立つその大男は、全登が知る牛人族より一回り大きい。
「なぜその名を?」
「汝が問いに答えること能わず。我は女神の十二使徒が一柱、タウラス。”アルヴの異端狩り”よ。女神に叛逆せしその命、刈り取りに参った」
タウラスは腰を落とし、戦斧を構える。
使徒。
眼前に立つ化け物は間違いなくそう名乗った。
全登は確信する。
この者こそ異端者どもの中核にして、女神に最も近しい存在だと。
ネビュラとオービスを行き来する、その手段を知る存在だと。
「随分と焦がれたぞ」
腰の刀に手を掛ける。
裏路地に二人の殺気が満ち――
――爆ぜる。




