第七話 青時雨
――ポツリ。
雨粒が肩を叩いたかと思えば瞬く間に勢いを増し、生い茂る薄桃色の葉を、大地を激しく鳴らし始めた。
この竹林にあって全登の頭上はだけぽっかりと穴が空き、疾く流れる黒雲が露わになっている。
得体の知れぬ力によって薙ぎ倒されたそのサクラダケの中心を見据えたまま、全登はただ呆然と立ち尽くしていた。
雨粒が顎を滴り落ちる。
されど全登は動かない。
動けない。
悲憤。
絶望。
後悔。
妻を失ったクレド。
――母を失ったコハク。
刀の柄に添えた左手を握りしめ、湧き上がる感情を思考で上書きする。
失ったものを取り戻す、たった一つの手掛かりに。
全登は籠を拾うと、静かにその場を後にした。
青時雨と朝霧で白く烟る山道を進んでいると、前方に白い人影を認めた。
「……ジュストか?」
雨音を打ち払うが如く張られたそれ聞き馴染んだ声だった。
「……アムラス」
「その籠は……」
「ヒスイの物だ。これの側に空穴の痕跡があった」
「ッ……!!」
言葉を失って立ち竦むアムラスの横に並ぶ。
「村へ戻るぞ」
その言葉に対しアムラスは無言だったが、すれ違うように先へ進むその全登に慌てて反転し、その背を追った。
「お前は以前――」
三歩ほど後ろをついて歩いていると、全登が振り返る事なく口を開いた。
「異端者どもがネビュラとオービスを行き来していると言ったな」
確かに言った。
だがそれは噂……それも与太話に近いものだ。
そして今、全登がその与太話を掘り返した意図にすぐ気がついた。
「……危険だ。異端者に近づくなど」
「だが、他に手はあるまい」
全登の声色は鎮座する大岩のように静かで、冷たい。
「父上が異端者と戦っておられる!! 父上が奴らを討ち倒せば……!!」
「それは何十年後だ? いや、何百年後か?」
「それは……」
「それまでヒスイがオービスで生き永らえている保証がどこにある? アニマの加護無き世界で変わらず千年生きられるのか?」
アムラスは返す言葉を持たない。
全登が語ったオービスは、長らく戦乱が続いていた。
一人の英傑が天下を統一し、太平の世が訪れたが彼の死を契機に再び国は東と西、二つに割れた。
そしてその最後の決戦で全登が属する西側が敗れ、その直後ネビュラへと飛ばされたと言う。
その後、泰平の時代が訪れたならば、ヒスイがあちらで生きられる可能性は高まるだろう。
しかしそれでも、狐の耳と尾を持つ異形の何百年も生きる存在を、果たしてオービスの人々は受け入れられるだろうか。
それに、全登の言う通り長命種と言えどアニマの無い世界でネビュラと同じように永く生きられるかは誰にも分からない。
「……俺の国には玉藻前という妖狐……狐の妖の伝説がある。傾城傾国の美女で、説によらば二千年も生きたことになる。あれはネビュラの民だったのではないか、などと下らぬ戯れ事を考えていた」
アムラスにとり、それは非常に興味深い話ではあった。しかし、全登が今その話をする意図が汲めず黙って聞いていた。
「であれば、ヒスイも向こうで永く生きられるやもしれぬ。何百年か、千年か――」
全登はアムラスに背を向けたまま大きく息を吐き、降り注ぐ雨を一身に浴びるが如く天を仰ぐ。
「お前が伯の跡を継ぎ、異端者を討ち滅ぼしたなら奴らが持つ転移の力を奪い、ヒスイを取り戻せ」
アムラスは視線を落とし、ただ前を行く足を見つめて歩いていたが、ピタリと目安にしていたそれが静止した。
顔を上げると、一切振り返らず歩いていた全登がこちらを真っ直ぐに見ていた。
その腰に提げられた白刃の如き鋭い眼光に射すくめられ、アムラスは硬直する。
この光をアムラスはよく知っている。
異端者征伐に向かう父のそれと同じ、死地へ向かいながらもなお、生きることを諦めぬ者の目だ。
いつしか黒雲は流れ、旭光が山道に差し込んでいた。
「あくまで、俺が失敗したら――だ」
「……ああ。何百年かかっても」
これは誓いだ。
誓約書も、儀礼も必要ない。
目すら合わせない。
けれど、何百年のちにも忘れはすまい。
友に立てた、この誓いは。
その答えを聞くと、全登は踵を返して再び歩き出す。
確固たる足取りは、一切の迷いを感じさせない。
この男ならあるいは、不可能を可能にするかもしれないと思った。
空を見上げ、眩しさに目を眇めた。
強く風が吹き、竹林に立ち込めた霧を蹴散らしていく。




