第五話 うさぎのリンゴ
最初に感じたのは、知らない天井の木目と、ふわりと香る、家のものとは違う石鹸の匂いだった。
(……あれ? わたし……)
身体を起こそうとして、全身が鉛みたいに重いことに気づく。特に頭がぼーっとして、思考に霧がかかったみたいだ。
「……しずく? 目が覚めたのね」
優しい声と共に、冷たいタオルがそっとわたしの額に乗せられた。見上げると、心配そうな顔をした母さんが、わたしの顔を覗き込んでいた。
「おかあさん……?」
「ええ、そうよ。気分はどう?」
「……うん、だいじょうぶ。ここ、どこ?」
「宿屋さんの一室よ。あなた、昨日からまる一日、ずーっと眠っていたのよ」
「いちにち!?」
母さんの言葉に、わたしは愕然とした。たった一回の魔法の練習(?)で、丸一日も寝込んでしまうなんて。わたしの体、どんだけ燃費が悪いんだ。
母さんは、わたしの驚く顔を見てくすくすと笑う。
「幸い、お医者様に見てもらったら、外傷はほとんどなくて、ただの魔力切れですって。本当に、心配させないでちょうだい」
その声は穏やかだったけれど、その奥に確かな安堵が滲んでいて、わたしは胸がちくりと痛んだ。
「ごめんなさい……」
「いいのよ。でも、無理な練習はもうだめよ。魔法は、ゆっくり身体に馴染ませていくものだから」
母さんの言葉に、わたしはこくりと頷く。でも、どうしても聞きたいことがあった。
「ねえ、おかあさん。どうして、わたし、おちちゃったの? とぼうとおもったのに……」
その質問をした瞬間、母さんの表情が、ほんの少しだけ、曇った気がした。
「それは……そうね、まだしずくには、外の魔力のコントロールが難しかったのよ。きっと、魔力の制御を間違えちゃったのね」
母さんはそう言ってわたしの頭を撫でてくれるけれど、その目は、どこか遠くを見ているみたいだった。何か、わたしに言えないことがある。その気まずい空気が、二歳のわたしにもはっきりと伝わってきた。
「……そういえば」
その沈黙を破るように、母さんはふと話題を変えた。視線の先には、ベッドの横にある小さな机。そこには、可愛らしいうさぎの形に飾り切りされたリンゴが置いてあった。
「これ、この宿屋の小さい娘さんが、あなたのことを心配して持ってきてくれたのよ。『はやくげんきになってね』って。とってもいい子だったわ」
母さんは、本当に嬉しそうに微笑む。
うさぎのリンゴ。その不器用だけど心のこもった贈り物に、わたしの心もぽかぽかと温かくなった。
(そっか、ここは宿屋さんだったのか……)
食堂に落ちた衝撃で、記憶が曖昧だった。知らない子が、わたしのことを心配してくれていた。それが、たまらなく嬉しかった。
「おれい、いいにいかなくちゃ!」
わたしがベッドから飛び起きると、母さんは「あらあら」と笑いながらも、「体はもう平気なの?」とわたしの手を取ってくれた。
母さんに手を引かれ、わたしは落ちた場所である食堂へと向かった。食堂の天井には、ぽっかりと人間一人が通れるくらいの穴が空いている。それを見て、わたしは顔を真っ青にした。
「あ、あな……! ご、ごめんなさいしなくちゃ!」
「ふふ、そうね。でも、わざとじゃないもの。きっと許してくださるわ」
母さんに慰められながら、わたしたちは食堂の奥にある厨房へと向かった。
厨房は、お昼時の準備で大忙しだった。野菜を刻む小気味いい音、スープの湯気、そして香ばしい匂い。宿屋の大将らしい恰幅のいいおじさんと、女将さんらしいきびきびと働くおばさんが、わたしたちの姿に気づいて手を止めた。
わたしは慌てて、ぺこりと頭を下げる。
「あのっ! あな、ごめんなさい! おみせこわして、ごめんなさい! ここで、はたらきます!」
わたしの必死の言葉に、大将と女将さんはきょとんとした後、わははと豪快に笑った。
「ははは! 気にしなさんな、お嬢ちゃん! あんたのとっつぁんから、修理代も迷惑料も、それから食いきれないほどの美味いパンも、たんまり貰ってるからよ!」
「ほんと、お転婆さんねぇ。気持ちだけで十分よ」
二人は、わたしの頭をわしゃわしゃと撫でてくれた。
その時、厨房の奥の扉から、小さな女の子がひょっこりと顔を覗かせているのに気づいた。
女将さん譲りの、燃えるような赤い髪。くりくりとした、熟した果実みたいな紅い瞳。真っ白なワンピースを着て、わたしのことを少しだけ怖がるように、でも興味深そうにこちらを見ている。五歳くらいだろうか。まるでお人形さんみたいに可愛い子だ。
あの子が、うさぎリンゴを……!
わたしはその子に向かって、満面の笑みを浮かべた。
「りんご、ありがとう! とってもおいしかった!」
わたしの大きな声に、その子はびくりと肩を震わせ、顔を真っ赤にした。そして、ぷいっとそっぽを向きながら、叫ぶように言った。
「べ、べつにあんたのためじゃないの! お母さんが作りなさいって言っただけなんだから!」
そう早口で言い切ると、彼女はぱたぱたと音を立てて奥へと引っ込んでしまった。
「あらあら、この子ったら人見知りで」
「おい、出てきてご挨拶しなさい!」
両親に促されても、彼女は恥ずかしがって出てこようとしない。
厨房はこれからが一番忙しい時間だ。これ以上、お仕事の邪魔をしちゃ悪いな、と思った私たちは、そろそろ帰ることにした。
「おじさん、おばさん! あのこに、ほんとにおいしかったって、つたえてください!」
わたしはそう伝言を残した後、宿屋の大将と女将さんに「こっちを使いな」と勧められた厨房の裏口から母さんと一緒に帰ることになった。
新しい友達、とまではいかなかったけれど、なんだか心が温かくなる、不思議な出会いだった。
ベトー:
(……え、修理費はまた俺が出すの?)




