第十話 リリーは激怒した
宿屋の娘、リリーは激怒した。
必ず、かの奸智に長けた小悪魔のごとき娘を、除かなければならぬと決意した。
そもそも、話の始まりはこうだ。
うちの店の天井に、いきなり穴が空いた。そして、そこから女の子が落ちてきた。普通に考えて、大事件だ。
気絶しているそいつがあまりに哀れだったから、わたしは気を使って、うさぎの形に切ったリンゴまで持って行ってやったのだ。だというのに、あの女……しずくは、その恩を仇で返しやがった!
あいつがパン屋の店先で商売を始めてからというもの、どうも様子がおかしい。
今まで、うちの宿屋の食堂に来るお客さんたちは、みんなわたしのことを「リリーちゃんは可愛いなぁ」「うちの孫にしたいくらいだ」と言って、それはもうちやほやしてくれていたのだ。わたしは、この宿屋のアイドルだった。そのはずだった。
それが今や、誰も彼も口を開けば「パン屋のしずくちゃんが」「あの小さい売り子さんが」と、あの女の話ばかり!
わたしのファンを、わたしの信者たちを、ごっそり奪い去っていったのだ!
……いや、待て。思い返せば、天井に穴が空いたこと自体がおかしい。
普通の子供が、床を突き破って落ちてくるなんてことがあるだろうか? いや、ない。
そうだ、間違いない。あの輩は、人の姿形をした疫病神か何かの類なのだ!
わたしの人気を吸い取り、この宿屋に災いをもたらす邪神に違いない!
「うがぁーーっ!」
込み上げる憤怒に、わたしは天高く拳を突き上げた。
見てなさいよ、しずく! このわたしが、あんたの化けの皮を剥がして、退治してやるんだから!
「あらあら、リリー。何やってるのかしら」
「はっはっは、元気があってよろしい!」
食堂の隅で一人憤慨しているわたしを見て、お父さんとお母さんが笑っている。わたしのこの燃え盛る怒りが、ただの子供のかんしゃくにしか見えていないらしい。
わたしはぷいっとそっぽを向くと、二人に向かって宣言した。
「ちょっと、上のパン屋さんに行ってくる!」
「おや、そうかい。しずくちゃんによろしくな」
「仲良くするのよ」
……違う! 仲良くなんて、これっぽっちもする気はない!
二人は、わたしがあの邪神と友達になりたいのだと、とんだ見当違いをしている。まあいい。どうせすぐに、わたしの正義の鉄槌が下るのだから。
わたしは、ずんずんと石の階段を上った。一段、また一段と、怒りを力に変えて。
そして、四十三階。パン屋の軒先にたどり着いたわたしは、愕然とした。
あの女……しずくは、大勢の客に囲まれ、満面の笑みでパンを売っている。客たちは、みんな骨抜きにされたみたいに、でれでれした顔で彼女を見ている。
(きいいいぃぃぃっ! わたしのファンだったおじさんまでいるじゃない!)
怒りで、目の前が真っ赤になる。
わたしは、その人だかりをかき分けて、しずくの背後へと回り込んだ。
「……ねぇ」
「ねぇってば。聞こえてるんでしょ?」
わたしが声をかけると、しずくは「はい、いらっしゃいま……」と言いながら振り向き、わたしを見るなり目を丸くした。
「あーっ! あなたは、りんごの!」
そこからの展開は、嵐のようだった。
わたしが何か言うより先に、しずくのマシンガントークが炸裂し、店の奥からは号泣するおじさん(しずくの父親らしい)が飛び出してきて、気づけばわたしは、敵の本拠地である家の中へと連行されていた。
「……お、おじゃまします」
……礼儀だけは、ちゃんとしておく。
家族が店に戻り、ようやく二人きりになった。今度こそ、文句を言ってやる。
そう思ったのに。
「わたし、しずく! あなたは?」
「……リリー」
「リリー! 素敵な名前だね! わたし、リリーと友達になりたかったの!」
太陽みたいな笑顔でそう言われて、わたしの毒気は完全に抜かれてしまい、
「……うん、ともだち、なる」
不覚にも、頷いてしまった。
(違う! わたしはこいつを倒しに来たはず……!)
でも、敵を倒すには、まず敵を知ることからだ。そうだ、これは戦略的撤退。わたしは、こいつの使う妖術の正体を突き止めるために、あえて懐に飛び込んでやるのだ。
わたしは意を決して、恥を忍んで、目の前の師に教えを乞うた。
「……その、おきゃくさんをメロメメロにするほうほう……おしえて、くれない?」
そこから始まった接客講座は、わたしの想像を絶するものだった。
最初は「笑顔」だの「大きな声」だの、まともなことを言っていた。だが、しずくの指導は、どんどんおかしい方向へと進んでいった。
「ウインクを混ぜると、お客さんのハートを鷲掴みにできるよ!」
「ちょっと上目遣いを意識するの!」
(な、何なのよ、これ……!?)
わたしは半信半疑だった。でも、この女は、現にこの技で人気者になっている。だまされたと思って、やってみるしかない……!
数時間後、わたしたちは最終奥義の特訓に入っていた。
「ちがう、リリー! もっとこう、ヒップをきゅっと上げて!」
「こ、こうですか、師匠!」
腰に手を当て、首をこてんと傾げる、謎の「うふーんポーズ」。
これをマスターすれば、わたしも……!
「そう! 素晴らしいわ! あなたには才能がある!」
師匠の賞賛に、わたしの心に火がついた。
見てなさいよ、お客さんたち!
この究極奥義を会得して、わたしは必ず、宿屋のアイドルの座に返り咲いてみせるんだから!