番外編 お蝶と弥助 9
権兵衛は苦しみと寒さの中、安堵の表情を浮かべていた。土蜘蛛の姿は徐々に見えなくなり、薄い影が牢の中に残っていた。やがてその影は権兵衛の腹部に勢いよく突き刺さった。権兵衛は目を見開き口の角から細かい泡が溢れた。権兵衛は体の中が音を立てて張り裂け、視界が白黒の世界に支配されるたかと思うと、強い閃光と耳鳴りが絶え間なく続いた。権兵衛の顔は苦痛に歪んでいたが、その口元には笑みが浮かんでいるようにも見える。やがて、彼の顔には嬉々とした表情を浮かべる。「うへへ、痛い。痛みがある…」権兵衛はごろごろと床をのたうち回りながら、牢の壁に巨体を何度も打ち付けた。
やがて権兵衛の身体から痛みが消え、体に力が溢れてきた。彼はいつの間にか自分の視界の隣に今までになかった別の視界があることに気が付いた。まるで目が上下左右にいくつも増えたみたいに。権兵衛は自身の顔を両手で確かめるが、いつもの権瓶の顔であった。「なぁ、貴様名前は権兵衛というのか」と彼の頭の中に疑念が浮かんだ。権兵衛は自身の心に「そうだ」と返答した。
「そうか、このまま憎たらしい奴を片っ端から殺していくか?」
「それは困る、俺の地位や生業がなくなってしまう。俺はこの先も金を稼いで贅沢に暮らしたい」
「そう考えるか、我はもっと貴様の欲求や感情に耳を傾けてもいいと思うがな」
権兵衛は一人でぶつぶつと呟いていた。
「検非違使とやらの取り調べをやり過ごして、お蝶とやらを手に入れて、お前は今まで通り高利貸しを続ける。それが可能と思うのか」
「…馬鹿げている。俺は今まで幾人も、捨てられない者が破滅していく様を見てきたのに。俺がまさにそうなろうとしていたってわけか」
「お前は今までの財産を投げうつ代わり、すべてを力で手に入れる。行幸であろう?」
「ああ、そうだ」
「手始めに好き勝手に暴れてみるがよい」
権兵衛は分厚い格子状の木材に手を掛けると、紙を割くように勢いよく、めきめきと凄まじい音を立てて引きちぎった。巡回に出ていた役人の耳にも、異変は届いているはずであるが、一向に駆け付ける気配はない。権兵衛は手当たり次第に牢の格子をぶちやぶり、引き抜き、あたり一面をがれきの山と化していった。
「おい役人ども、出てきたらどうなんだ。権兵衛様が牢から出ているぞ?はっはっは」
権兵衛が屋敷の柱を掴むと力に任せて揺さぶると、天井がきしみ、パラパラと土誇りが辺りに舞う。その様を見て権兵衛は悟った。もう誰にも俺を止めることはできないと。
「与一と言ったか?奴は殺さなくていいのか?」
「あんな奴はもうどうでもいい、俺は金や地位の為に朝から晩まで右往左往するような人間ではなくなったからな…欲をかなえるには順番があるんだよ。時間がもったいねぇ」
「権兵衛、お前は変わったものの考え方をするんだな」
「目の付け所が良いと褒めてくだせぇ、ところで貴方はなんとお呼びしやしょうか?」
「呼ぶ必要はない」
「…まずはあったけぇ寝床とうまい食い物、風呂が欲しい」
「欲があるのかないのか、よくわからん奴だな」
権兵衛は検非違使の屋敷から何事もなかったように正面から歩いて出ると、星空の下をゆっくりと背伸びをしながら歩み始めた。




