番外編 お蝶と弥助 10
権兵衛は両手を広げて天を仰ぎ見た。まるでそこにあるすべてを手に入れようとするかのように。彼は気分よく、碁盤のようにきれいに建物が並ぶ街並みを一人で歩いていた。彼の目には真夜中であっても昼間のように鮮明に街並みが見えている。
大きく息をすれば、遠くから、囲炉裏で焼かれたであろうかまぼこの香ばしい香りがしてきた。
おそらく、数刻前に焼かれたものでろう。それでも権兵衛の新しい体はその匂いを容易く嗅ぎ取っていた。
更に鼻に意識を向けると、町に暮らす人々や動物の匂いが鼻についた。権兵衛はむせ返りそうになるが、その反面とても旨そうな香りに思えた。
「どうだ、そこら辺の長屋で程度のいい獲物を喰らっていこうじゃないか」
「それもやぶさかではありませんがね、おれはついさっきまであいつらと同じ人間だったんですぜ?」
「まだ、人を喰らうには抵抗があるということか?」
「それに旦那、旦那は人間の料理を食ったことはありますかね?」
「ないな」
「いくつか紹介してみましょう」
「おれにはそっちの方が抵抗を感じるがな」
権兵衛は自分に話かけては一人でそれに答えていた。
「おれはある山の主だった。人間に言わせれば化けものや悪神といったところだ。だがな、今は住みかを追われて力も弱っている。権兵衛、貴様に憑依しているというわけだ。ここまで説明すればお前なら種々汲み取ってくれるであろう」
「そいつは旦那、えらく大変なことがあったのでしょう。ゆえに力を取り戻すまで俺が旦那の役に立てることがある。そして、旦那は元の住みかに戻ることを目指していると?」
「平たく言うとそういう事だ。細かく言えば今の山の主に気取られぬよう、力を得なければならない。故に山に入って、のんびりと鹿や猪を捕まえるようなことがあれば直ぐに感づかれる。そこでお主を通して力を蓄えねばならない」
「それで、旦那にとっての力の源はなんでしょう?」
「欲、妬み、怒り、いわゆる貪瞋痴と言ったところだ。己の欲と心の赴くままに在る生き方そのものがわが力、血肉となる。ただの獣ではなく、我にとって怒りと妬みが重要な意味を持つ」
「だから人間に、俺に声がかかったと」
「そうだ」
「なら話は早い、それならまず」
「言わずとも良い。お主の抱える恨みと妬みを我は知っている。」
権兵衛は自身が暮らしていた住居に向けて歩いた。
彼の屋敷には財や酒と言ったものがごろごろと転がっている。検非違使の屋敷から逃げ出したとはいえ、少しの猶予はあるはずだ。
彼は必要なものだけもって適当な空き家に隠れることにした。権兵衛はある空き家を思い出した。
吞んだくれのどうしようもない親父と一人息子が住んでいたおんぼろの家を。
数刻前、凛輪の山小屋では、お蝶の為にささやかな馳走が用意され、凛々と弥助は存分に彼女をもてなしていた。凛々はまさか人間の若い娘と食卓を囲む時が来るなど夢のようだった。弥助にとってもまた、夢のような時間であった。お蝶は住んでいた家と家族を捨て、いや、捨てられたも同然と思っていた矢先に思いもよらぬ縁に恵まれて、複雑な心境であった。悲しみと温かみが彼女の笑顔には混在していた。
清潔な木の床に高い屋根。小屋の中心には大きな囲炉裏があり、土間には台所と釜が備え付けられている。囲炉裏にくべられた薪が小さく爆ぜる音と共に新鮮な川魚の香ばしい香りがした。凛々は夕食の為に米を炊いていた。お蝶だけではない、心の大切な部分が欠落した少年だった弥助が顔を赤く染めて、嬉しそうに笑っている姿をみてよほど嬉しかったのであろう。
凛輪は弥助を自身の後継者として育てるよりも、このままお蝶と共にここ人として暮らしてもらう方がよほど理に適っているような気がした。
食事を終えると、皆で片づけをして凛輪がふすまからが畳を積み重ねた寝床を引っ張り出した。
弥助はいつの間にそんなものを用意したのかと疑問に思ったが、床で寝る気だった弥助が流石師匠だと感心していた。そうして三人は行燈の灯りを消して、激動の一日を終えた。お蝶は狐にでも化かされているのではないかと心配な気持ちもあったが、これが夢ならそれはそれで仕方ないと思えた。
今までの人生を思い返すと、家族の顔が心にくっきり浮かんでは静かに心の底に沈んでいく。
お蝶が目を閉じると頬に温かいしずくが伝った。




