雨の日
ザーザー、と雨が降る音が室内でも聞こえるほど、今日の雨足は強かった。
ちら、と本から目を上げ、リディは外の天気を伺う。今日中には止みそうにもない。
夏から秋にかけて降る雨は短時間で止むこともあれば、数日は振り続くこともある。恵みの雨となるが、降りすぎても植物に悪影響となる。適度に降ってくれればいいのだが。
こうなったら、外に出て畑仕事をすることもできないので、こういう日は室内にこもり、本を読むか裁縫をしていた。
今日は前者で農業に関する書物を読んでいた。
リリアーナの頃から知識を吸収するのに貪欲で、どんな本も読んだ。だから、専門用語が多いような本も最初は辞典を引きながら読まなければならないため苦労するが、用語を覚えていけばすらすらと読め、最終的には楽しみながら読めるようになる。その感覚がリディはとても好きだった。
流石にこの大雨ではアロイスは来ないだろう。
あれから、週に何度かユストファ子爵家をアロイスは訪れてくれている。
今では手紙を送ることなくこの邸を訪れている。父がそんなに頻繁に来るなら手紙を送らなくていい、と言ったのが原因だ。そのため、アロイスは来る数日前にわざわざ手紙を送ることはなくなり、リディもアロイスのために朝から準備をすることもなくなった。
まるで、ユストファ子爵家の一員のように、今ではなっている。
今日は来ないのね、と思うだけで、頭の片隅で残念に思う気持ちが芽生える。
そんな気持ちをリディは必死に追い出そうとする。だって、こんな気持ち、自分が抱いてはいけない。
ユリウスに申し訳が立たなくなる。自分だけが幸せになることは許されない。だって、私はーー。
こんこん、とゆっくりと二回、リディの私室の扉が叩かれる音ではっと我に返る。
気づけば、雨音で本から顔を上げてから一頁も進んでいなかった。
一体、何をやっているのだろう。
自分に呆れながら、リディはハルジオンの押し花で作った栞を先程まで読んでいた頁に挟んで本を閉じ、扉を開けた。
そこには父が立っていた。
「どうしたの?父さん」
父がリディの部屋を訪ねてくることは滅多にない。
「リヴァイン侯爵が来てくださったんだよ。リビングでお待ちいただいているよ」
「え、来てるの?」
「うん、そうなんだよ」
父は優しい笑みを浮かべる。
リディはさっと今の自分の服装を見て、部屋を出た。
リビングに着くと、何やら書類を読んでいるアロイスが座っていた。
物音で気がついたのか、アロイスは書類から顔を上げる。
「こんな日にごめんね」
「い、いえ。てっきり来られないかと思ってました」
自分で椅子を下げて、アロイスの対面に座る。
「実は昨日から侯爵家の領地に視察に行ってたんだ。そしたらこの雨でね。王都までの帰り道に子爵邸があるから、寄らせてもらおうかな、と」
「視察に行ってらしたんですか」
「最近雨がすごいでしょ。それで領地の一つで土砂災害が起こってしまって、その復興のためにね」
「それは大変ですね」
今見ている書類もそれ関連の書類なのかもしれない。
「さて、と。リディも来てくれたし、書類整理はやめようかな」
ぱんぱんと揃えると、アロイスは書類を横にのけた。
「今日は何をしていたの?」
「自室で本を読んでいました」
「本?どんな?」
気のせいかもしれないが、アロイスの表情が和らいだ気がした。
「農業に関する本です。家で栽培していることもあるんですが、我が家の領地にある家庭のほとんどが農業を生業としているので。知っていた方がいいかな、と」
「それはいいことだね。きっとその知識はどこかで役に立つよ」
女が男の仕事に関わるな。
リリアーナの生きた頃はまさにその言葉を体現したかのような時代だった。今はその時よりは緩くなったとはいえ、依然そんな風潮がある。だから、アロイスの言葉はとても近代的なものだ。
リディが女に相応しくないとされる書物を読んでいても、アロイスは文句を言わないだろうとは思っていた。そして、実際褒められる言葉を言われるとやはり嬉しい。胸の奥が温かくなる。
「リディは本を読むのが好きなの?」
「そう、ですね。本を読んでいるとどんな種類のものでも気持ちが落ち着くんです」
それはきっとユリウスと就寝前に読んでいたことが影響している。
結婚当初から就寝前にリリアーナの部屋で各々本を読んでいた。特に何か話をするわけではない。読む本もてんでばらばら。読んでいる本の感想を言い合うことも稀で。だけど、リリアーナにとってとても大切な時間だった。
だって、ユリウスの寝顔を見られたから。大抵、ユリウスはリリアーナより先に寝落ちした。その寝顔をじっくりと見る時間が好きだった。
そうして、いつしかリリアーナも眠りに落ち、気がついたら、自身のベッドの上、ということが何度となくあった。きっと途中で起きたユリウスがリリアーナをベッドまで運んでくれていたのだろう。そう考えるだけで、顔から火が吹きそうなほど恥ずかしくなった。
そんな、些細なことを思い出す。その思い出を大事に大事にしまい込んでいるのはリリアーナだけだ。ユリウスは気にも止めていなかっただろう。
「アロイス様も読まれるのですか?本を」
「うん、就寝前にね」
「え」
驚きすぎて素っ頓狂な声を上げてしまう。案の定、アロイスは不思議そうな表情でリディのことを見ていた。
「あ、いや、私も寝る前によく読むので。一緒だなあ、と思って」
「そうなんだ」
それはそれは嬉しそうな笑みをアロイスは浮かべる。
「本を読んでいて、いつの間にか寝落ちしていることが結構あってね。その次の日はいつも首が痛くなるんだ」
「座ったまま寝てしまうんですね」
ユリウスもよくその姿勢で寝ていた。だから、リリアーナが首が痛くならないのですか、と訊いたことがある。けれど、ユリウスは首の痛さをあまり気にしていないようだった。それとも、本当は痛かったが、リリアーナには隠していたのだろうか。どうして?
「うん、そうなんだ。もう癖になってしまってるね」
そして、アロイスは用意されていた紅茶に口をつけた。
口を湿らせたアロイスは続けて口を開く。
「こう雨が多いと外に出られないから、退屈だねえ」
「アロイス様はこんな日は普段、何をしているんですか」
「溜まった書類の決裁かな。あまり好きではなくてね。ついつい期日ぎりぎりまで溜めてしまうんだ」
「意外ですね。その日のうちに決裁されていると思ってました」
「まあ、嫌なことはなるべく伸ばしたいタイプでね。何かその先に楽しみがあるのなら、一生懸命頑張るんだけど」
肩をすくめ、冗談めかして笑う。
「ご褒美がほしいんですか」
「うん、そう。褒美がないと頑張れないんだよね」
どこか遠くを馳せるようにアロイスは目を細める。
「あ、そうだ」
そして、突如、声を出したかと思うと、リディをひたと見つめる。
「リディって裁縫得意?」
「裁縫、ですか?」
脈絡のない話題にリディは首を傾げながらも答える。
「まあ、それなりにですかね」
それこそ雨の日に部屋にこもってするくらいだ。
「だったら、刺繍を施した手巾が欲しいんだ。もちろん、リディが嫌ならいいんだけど」
「別にいいですよ」
雨の季節はしばらく続くだろう。それに伴って、畑にもあまり出られなくなる。
「何か刺繍して欲しいものとかありますか?」
「なんでもいいよ。あ、でも花にして欲しいな。花の種類はリディに任せるよ」
「分かりました」
花は令嬢教育で何度か縫ったことがある。
けれど、何の花にしよう。リディはそこまで花の種類に詳しくない。
あれこれと覚えている範囲で花を思い出しているリディにアロイスはにやにやとした表情で見守っている。
それに気づいたリディは眉を顰めつつ口を開く。
「どうしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ」
そんなことを言いつつも、アロイスの口の端が上がっている。
怪訝な表情をしているリディに先程よりも笑みを抑えながらアロイスが口を開く。
「リディに、ね。少しでも長い間僕のことを意識してほしいな、と思って。いつも僕ばかりがリディのことを考えてるなあ、と思ったから」
ところが、そんなアロイスから言われた言葉にリディは目を見開く。
そして、次の瞬間にはリディは恥ずかしくなり、目を逸らしてしまった。
アロイスばかりがリディのことを考えている、なんてことはない。
リディも気がつけば、アロイスのことを考えてしまっている。と同時にだめだ、という気持ちが働いて、懸命に彼のことを考えないようにしようとしている。
リディに新たな恋は許されない。だって、前世で唯一優しくしてくれたあの人に、リリアーナは最悪な最後を見せてしまったから。あの人に謝らないままリリアーナは先に進んではいけない。
ユリウスがリリアーナと同じくこの時代に生まれ変わっているかは定かではない。だから、ユリウスに直接謝ることはできない。それなのに、リリアーナだけが自分の気持ちのまま生きることはできない。
けれど、もし彼がユリウスの生まれ変わりだったら?彼はリディが謝ったら許してくれるだろうか。
ううん、許してくれるはずがない。リディがリリアーナの生まれ変わりだと知れば、即婚約破棄されることだろう。
そんなことはされたくないと、身勝手にも心の中のリリアーナが叫ぶ。
婚約を結んだ当初は、破棄するつもりだったのに。今だって破棄しないといけないと思っているのに。
半年間の婚約期間が終わる日が近づくことに、リディはこの時間が終わらなければいいのにと思ってしまう。
アロイスと過ごす時間は、特に何の変哲もない時間だ。けれど、何にも代えがたい大切な時間でもある。
それはユリウスと過ごした時にも感じていたこと。
ユリウス様、私は幸せになってもいいのでしょうか。




