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11 弘安の役、その概容(R15)

日付は現在の西暦、当時はまだ存在していませんがグレゴリウス暦によっています。

地名は日本語に準拠しております。



 モンゴルは日本への第二次遠征を企図していた。

 文永の戦役を通じて得た、多くの情報に基づいて。

 

 「彼ら(日本)の武装は弓・刀・よろいかぶとである。長物を用いない。騎兵は美しく飾り立てている。鎧のうち特に精巧なものは黄金造りであり、多くの珠をめぐらせてある。刀は長くきわめて鋭利、物に穴を開け突き通してしまう。ただし弓は木製で、矢は長いが射程は短い。人々は勇敢で死を恐れない」


 と、これは(やや散文的な)戦術面の情報であるが。

 戦略面についても情報を整理していた。


 「日本は海洋を挟むこと万里……たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、その土地は広く、人口がやたらに多い。その兵は四方から集まってくる。万一不利になってしまうと、救援を出そうにも海を飛んで渡るわけにはいかない」


 文永の役において、日本の抵抗はなかなかに激しかったのである。

 ならば後詰めを出すべきだが、輸送に困難がある。そのことモンゴルは十分に理解していた。


 これを克服しようと、茶丘は第二次遠征の手法について2つの案を提出していた。


 ひとつは、補給線の確保。

 第一次遠征で確認した、合浦――対馬――壱岐――志賀島の線をさらに太く確実なものとする。

 その上で、十分な兵力を後詰として押し出す。


 もうひとつは、戦線の拡大・分散。

 国力に差があることは分かりきっているのだから、モンゴルの持つその利点を押し付けるべきだと茶丘は考えた。

 博多・大宰府を主戦場にすべきことは当然であるが、より広範囲の複数個所に攻撃を加え上陸を試みるのが良い。日本には手が回りきらぬであろう。海岸堡を確保し、補給線から後詰めを繰り出せば占領が可能になる。

 たとえ第二次遠征が失敗に終わったとしても、次に備えて日本側は防衛の手を広げる必要が出てくる。その国力を削ぐことができるのだ。

 一度で落とせるならばそれに越したことは無い。だがモンゴルの戦争は波状攻撃。

 つねに「その次」を意識するのがモンゴル人・洪茶丘の思考態様であった。



 

 そして1281年、モンゴルによる日本への第二次遠征(弘安の役)が始まった。



 東路軍は東征都元帥のヒンドを主将に、右副元帥の洪茶丘、左副元帥の金方慶。

 総勢150~200艘の軍船に、水夫を合わせて2万人強の軍勢が分乗していた。


 江南軍は都元帥としてアタカイ、副元帥として范文虎。

 200~300艘の軍船に、4万人弱が動員されていた。


 

 5月28日


 東路軍の一部、多くて100艘程度が合浦を出航し、同日対馬に到着した。

 5日間以内に全島を制圧。

 後続の船を呼び、対馬にて再編成を行い、一部が壱岐を目指した。



 6月9日


 先遣部隊はこの前後に壱岐に到着し、数日かけて全島を制圧した。

 再び後続の船を呼び、再編成を行った。



 6月20日


 先遣部隊が志賀島に到着した。

 日本側の防備が薄かったため、その日のうちにモンゴルは上陸に成功した。

 

 だが同日、壱岐において後続部隊の船が一艘、遭難していた。

 その事実はクビライにまで報告されている。

 対馬・壱岐を確保してもなお、海路と補給には困難が伴っていたのだ。



 6月21日頃


 征東行省左丞相に任ぜられた高麗王は、5月から8月まで開京を出て金浦で督戦にあたっていた。

 その指揮のもと、ふたつの船団が日本へ向けて出航した。


 ひとつは、高麗から対馬へ向かう後発部隊。

 またひとつは、長門へ向かう別働隊、数十艘の軍船であった。


 半島と日本には古来より往来がある。海賊も含め。

 高麗は直接長門へと至る航路を知っていた。


 予想通り日本側の防備は薄く、7月初頭に上陸したモンゴルは8月まで長門の海岸を占領した。



 

 6月30日


 この日、後続の部隊が志賀島に到着した。

 先遣部隊との間に交替・再編成が行われた。


 モンゴルはここから7日前後にわたり、上陸作戦を敢行している。


 守る日本は博多湾に総延長20kmにも及ぶ防塁、「石築地」を築き上げていた。

 その防塁上から騎馬武者が、貧相な装備の歩兵達が弓を射かけてくる。


 いや、貧相と言えばモンゴル兵の装備も同じであった。日本軍はそれでも鎧を身につけているが、モンゴルの装備は布や革でできた厚手の服に過ぎない。

 そして日本の弓は射程こそ短いがその威力が強かったのである。第一次侵攻でもモンゴルは苦戦した。



 軍船から湾内を窺う茶丘の目に、一人の武者の姿が映った。

 せっかく作った防塁であろうに、わざわざ外に、前面に身を置いている。

 その剛勇ぶりに日本兵が歓声を上げていた。


 男を睨みつける茶丘の目に、隠しきれぬ憎悪の色が浮かぶ。


 厄介極まりない存在。

 合理的に行われるべき戦争において、しかし個々の小さな局面では時として理屈を飛び越えた輝きを見せる者が出現する。

 幾多の戦場を往来した茶丘は、その理不尽を身に沁みて知っていた。

 あの防塁は、落とせぬ。その思いは確信に近かった。


 だが足場の弱いところには防塁を築けまいと、目を主戦場たるべき鳥飼干潟に転ずれば。

 そこには乱杭が植えられてあった。

 強襲揚陸艇バアトルの侵攻を妨げるべく。

 


 目に映るそれら全ての風景に、茶丘は腹を立てていた。


 防塁は比高にしてわずか2m、手をかければすぐにでも突破できる高さであった。その程度の石垣に拠り、万里の長城を越えた我らモンゴルを阻めると思っているのかと。

 きらきらしく飾り立てられた鎧兜など、威を張るほかに何の合理性も無いではないかと。

 

 だがモンゴルは、その2mの石垣を超えられぬのであった。

 防塁の上に姿を見せる侍大将に矢を集中させてみても、倒れることがない。彼らが身につけている鎧兜は、矢戦に特化した作りであったのだ。


 これだけ合理的な戦ができる連中が、なぜモンゴルに参加する利を理解できぬのか。

 ただの石くれに、貧相な鎧兜に身を寄せて満足しているのか。

  

 怒りに身を震わせた茶丘であったが、引き際を過つ男では無かった。

 上陸を諦め、モンゴル軍は志賀島へと戻った。



 その6月30日、夜のこと。

 日本も厳しい反撃を開始した。7月2日にかけ日本は連夜、満潮に乗じて海戦を挑んだ。また7月2日午前には砂洲(海の中道)伝いに陸戦をしかけてもいる。

 


 茶丘に言わせれば、小うるさい連中であった。


 睡眠を妨げようと言うのか、判で捺したように夜に来襲する。

 大した武器も持っていないくせに、その身ひとつで挑みかかってくる。海戦ともなればふんどし一丁で刀を振り回し暴れ込む。

 迎え撃とうにも、馬に跨り逃げ回りつつ弓を射るモンゴル得意の戦法を使えない。軍船は当然のこと、志賀島も小さな海島であるゆえに。

 そのため弓と弩を用いて迎撃しているうちは落ち着き払っている兵の顔が、間合いの内側に入られてしまうと途端に歪むのであった。

 白兵戦を強いる日本軍の残虐さに怯えているのだ。


 こちらでも連中の意気を阻喪させようと人質を盾に取ってみても、お構い無しに矢を射掛けてくる。

 精強な軍は指揮系統が乱れれば弱いもの、そう思って討ち取った大将首を掲げ動揺と潰乱を誘うつもりが、むしろ喜び勇んで蝟集する。

 死体を争って奪い合うその狂態に、草原の男たちも震え上がっていた。

 

 たまに姿を見せぬと思えば、汚物や腐乱死体を投げ込んで来る。こちらの集中を乱し疫病を流行らせようと言うのであろう。

 その邪悪な知能に、野蛮さに、モンゴル兵は辟易した。

  


 配下の弱気を許せぬ驍将洪茶丘、自ら指揮を取ろうと馬鞭をかざし前へ出れば。

 あれぞ大将首とばかりに日本軍が殺到する。

 

 副官の横撃に辛うじて救われ、茶丘の怒りは頂点に達した。

 だがこれは緒戦、焦る必要はなかったのである。

  


 7月9日


 この日高麗は、またも後続部隊を対馬へと派遣していた。

 東路軍は高麗――対馬――壱岐――志賀島の航路を往復しては兵員を交代し、武具兵糧を届けていた。

 茶丘のもとには、気力体力に満ち溢れた精鋭が常に補給されてきた。



 7月21日

 

 志賀島から、一部の部隊が肥前鷹島へと派遣された。


 7月20日、25日、29日と日本軍が志賀島に夜襲をかけたとの記録がある。

 記録に残っていない日にも、夜襲は繰り返し行われていた。

 昼はモンゴルが攻勢をかけ、夜は日本がゲリラ戦を挑む。それぞれ兵を交代させては連日激戦を交えていた。



 7月23日~25日


 日本軍は壱岐へと逆撃をかけていた。

 鷹島を制圧されてなお、肥前の戦線は沈黙していなかったのである。

 せっかく確保した航路の要、壱岐をモンゴルは一時期奪われた。

 

 日本側から見れば、勝利の可能性が高まった時期であった。

 志賀島へも猛攻を続けている。



 しかしその直後、8月初頭のことであった。

 江南軍が肥前鷹島へと到着したのは。


 

 江南軍は7月12日、江南の舟山を出発。3日程度で済州島へ到着した。

 7月下旬、当初の予定通りに、あるいは日本の攻撃を受けている壱岐を避けたがゆえか、平戸島に停泊している。

 

 そして8月初頭、鷹島へと到着したのであった。

 江南軍はそのまま島内に砦を築いた。

 肥前を根拠とする日本水軍を押さえ込みにかかり、その目的も達成された。



 弘安の役におけるモンゴル軍の動向を整理し直すと以下のようになる。


 5月下旬に派遣された東路軍先遣隊が、6月下旬に志賀島を占領。博多湾への攻撃を開始した。

 6月末には後詰めを送り、兵を交代させながら博多湾を激しく攻め立てる。

 7月上旬には別働部隊により長門の海岸を制圧。

 7月末に一度は補給線を分断されたが、それも回復させた。

 8月初頭には江南軍により肥前の海岸を押さえ込んだ。


 補給路を確保・活用して主戦場の博多に圧力を加えつつ、戦線を広く長門・肥前にまで分散させる。

 モンゴルの戦略は着々と実行されていたのであった。

  


 8月19日


 志賀島から鷹島へと百戸(百人隊長)の校尉・張成による連絡部隊、軍船一艘が派遣された。

 同日、日本軍が鷹島に上陸し激戦が繰り広げられたが、モンゴルはこれを撃退。

 大攻勢の打ち合わせ、また武具兵糧の融通などが行われた。


 あとは東路軍本隊が志賀島から博多湾へと上陸し、赤坂山を制圧の後、博多を占領。そのまま大宰府へと進軍するばかりであった。




 8月22日から8月23日にかけての夜半


 巨大台風が訪れた。



 外洋に面する鷹島に停泊していた江南軍の船に被害が出た。

 全滅ではなく、多くとも十数艘ではあった。

 多くとも――商船を改造した200人乗りの船が――十数艘。

 つまり数千人が、帰りの足を失った。


 その事実に動揺したか、江南軍司令官の范文虎は僅かな供回りと共に逃げ帰ってしまった。

 時期をずらしつつ交替で退却すれば良いだけのことであったのに。


 8月29日、志賀島から東路軍を追い出した日本軍が鷹島に上陸した。

 凄惨な殲滅戦の後、江南軍の生き残りも帰途についた。




 一方で、博多湾内に停泊していた東路軍の軍船にはほとんど損害が無かった。

 しかしその晩は船の損害に目を向ける余裕など無かったであろう。


 モンゴル軍は死闘を繰り広げていたのだから。

 大嵐の中を陸伝いに志賀島へと乗り込んできた日本軍を相手に。

 

 台風はモンゴル軍を襲ったが、日本軍をも襲っていた。

 そこには差別も区別も無かった。


 だが日本人は台風を知っていた。その身に経験したことが無い者など皆無であった。

 モンゴルの、草原の兵士は台風を知らなかった。彼らが知っている嵐とはばい、すなわち砂嵐であった。


 湯の中に浸かっているかのような湿度、重く体にへばりつく暴風。何日続くものか、その体験も知識も持っていない。このまま水の中、海の中へと取り込まれてしまうと思ったとて、責められるものではない。

 周囲を見回せる冷静な者もいたであろう。台風を知る高麗兵も多かった。だがその目に映るのは、暗闇の中で10mも盛り上がっては崩れ落ちる大波であった。

 船が壊れてしまう。帰路は、補給はどうなる。いや、このまま志賀島に取り残され、唯一陸と繋がっている砂州から、毎夜絶え間なく日本軍に攻め立てられたら……と、冷静になれる者こそ恐怖を感じた。


 洪茶丘は、声を嗄らして兵を励ましていた。

 船は沈んでいない。こんな暴風は年に一度だ、明日には収まる。日本軍の小舟はみな壊れたぞ、この攻勢をしのげば数日は息がつける。ここまで有利に戦を進めていた、あと一歩で勝てるのだ。


 叫び声はしかし、暴風にかき消された。崩れた士気を立て直すことはできなかった。

 続く連日の攻勢に対し、モンゴル軍は及び腰になっていた。



 8月27日


 志賀島で日本軍は勝利を収めた。

 

 荒波に耐えるよう計算尽くで合理的に作られていた軍船に、そのほとんどを無事に残していた軍船に分乗し、東路軍は帰途につかざるを得なかった。



 茶丘は天候に、人には左右することのできない世界というものに敗れた。

 いや、天候の象を取って現れた地域の独自性というものに、そこに根付いて生きる地方色豊かな人間に、彼らが織り成す社会に敗れたのであった。  

 


 だが茶丘はいまだ敗北を認める気になれなかった。

  

 方針は間違っていなかったのだから。

 秋に台風が来ることは知っていた。季節を選んだが、江南軍の遅延が響いてしまったのだ。

 次は連絡を密にし、船出の季節を早めれば良い。



 金を征服するために、モンゴルは連年長城を越えた。

 高麗征服にも20年、6度の侵攻を重ねた。

 宋を征服するのに42年をかけた。うち6年は兵を襄陽・樊城に貼り付け続けた。


 日本遠征は準備期間を含めてもまだ10年、これは2度めの試みに過ぎぬではないか。




 文永・弘安の両戦役には違いも多いが、少なくともひとつは共通点がある。

 

 『高麗史』・『高麗史提要』には詳細な記述がある。

 しかし『元史』・『新元史』には記述が少ない。


 「多くが語られていないのは、征討が失敗したからだ」と説明することはできる。

 確かに中国の正史とはそういうものではあるけれど。


 「詳細に記すほどの重大事ではないからだ」。

 それもまた、確かな理由である。


 第一次遠征は、高麗を消耗させて終わった。

 第二次遠征では、平和が訪れた旧南宋の余剰兵力を用いたに過ぎない。

 

 モンゴルは、いまだ十分な余力を残していた。


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