12 第三次侵攻ならず
翌1282年の冬。
洪茶丘はクビライから平灤州にて軍船700艘建造を監督し、再挙を期するよう命ぜられた。
高麗、耽羅、揚州、隆興、泉州等にも同時に下された3000艘の建造命令、その一環である。
喜び勇んだ茶丘であったが、征東行省あるいは征日本行省が遼東・朝鮮方面に置かれることは無かった。
この時期その任を、日本行省の丞相を命ぜられたのは、アタカイであった。
アタカイは江南の抑えとして派遣されている大元の重臣である。
そのため次回の日本遠征について、クビライは江南軍を中心とするつもりではないかという見方が出た。
日本もそう思っているものか、江南方面で諜報活動を行って摘発される者が続発した。
しかし茶丘の、クビライの意に添うべく尽くしてきた男の見立ては異なっていた。
平灤は大元ウルスの首都・大都の東隣、渤海湾岸地域である。
そこで軍船を建造し再挙を図る、その意味は大きい。
次の征討は反復常ならぬ高麗を消耗させるためでもなく、南宋の失業対策でもない。大規模に編成されつつある江南軍は、あくまで助攻部隊に過ぎぬ。
モンゴルは、ついに自ら日本征討の軍を起こす意思を固めていたのであった。
いや、この時点で固めたというより、もとよりその意思があったと言うべきであろう。
茶丘が監督に任命される以前、1282年5月には首都湾岸の平灤で造船が始まっていたのだから。
物量だけではない。二度の海戦によって得た経験を活かし、質の向上にも怠り無かった。
蒙古本軍から数千、万をもって数える深馬赤軍。それら大元ウルスの精鋭が海戦の訓練に励んでいた。
しかし1283年、1284年と、日本征討の計画は立ち上がっては消えて行った。
一貫した意思が感じられぬかのような王者らしからぬ態度であったが、それはクビライの韜晦であった。
二度にわたり苦杯を舐めさせられた日本を、使者を斬り捨てた日本を、クビライは決して許していなかった。
今度こそ遠征を成功させるべく、入念な準備を重ねていたのである。
そして1285年、洪茶丘はふたたび征東行省右丞に任ぜられた。
前回この職に任ぜられたのは1280年、弘安の役の前年のことであった。
歴戦の将軍である茶丘は確信していた。
第三次遠征は近く、今度こそ勝てると。
第一次は様子見であった。
第二次は指揮系統に混乱があった。東路軍とはつまるところ遼東・女真・高麗軍であり、江南軍とは南宋軍である。まるで統一の取れぬ寄せ集めであった。
第三次。今度こそは、モンゴル本軍が出馬する。混乱無き指揮系統のもとで戦うことができる。
だが征東の軍は起こされなかった。
クビライはその可否を慎重に見極めていたのである。
平灤を含め、各地の造船について繰り返し「民力が疲弊している、叛乱が起きている」、「山の木が伐採され尽くしている」等の建言が為されていた。「大越やチャンパとの関係が思わしくない」と言い募る者もあった。
官僚達が次々に上申するそれらの――日本遠征を無用のものとする――諫言を、クビライは笑顔を浮かべつつ、しかし撥ねつけ続け、準備を重ねてはいたのだが。
1286年、またも日本遠征は中止された。
いつもの言葉が、第一次遠征の分析結果が、決め手となった。
「日本は海洋を挟むこと万里……たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、その土地は広く、人口がやたらに多い。その兵は四方から集まってくる。万一不利になってしまうと、救援を出そうにも海を飛んで渡るわけにはいかない」
茶丘は歯噛みした。
その難点は克服したではないか、第二次遠征において。課題を発見しては潰し、次に活かすのが我らモンゴルではないか。
大カーンのブレインを務めるほどに明晰な頭脳を持つあなた方文官に、重臣に、なぜそれが分からぬのかと。
だがクビライは、茶丘が敬愛してやまぬ大カーンは、その諫言を受け入れた。
……表面上は。
問題の本質は文官が指摘する江南の民乱でも、インドシナ半島との外交関係でもなかったのである。
それはモンゴルのハートランドで起こった。
西の草原に、そしてモンゴリアに燻っていた火種が、ついに炎を上げたのだ。
1287年、ナヤンの乱が起きた。
平灤州: 現在の唐山市・秦皇島市。北京の東隣地域。




