第1話 その手に握るモノ
朝の訓練場に、鉄の音が響いた。
装甲車両の上で固定具が外れ、二本の発進レールが左右へせり出していく。ゆっくり開くその姿を見上げるたび、高良大地は胸の奥が落ち着かなくなる。
怖いわけではない。少なくとも、怖いだけではない。
右肩を回した。背中に取り付けた四枚の人工羽が、神経接続を通して動きに応じる。上翼は軽い。左下翼も問題ない。けれど右下翼だけが、ほんのわずか、考えた動きから遅れている気がした。
「また背中と相談してるのか?」
横から覗き込んできた青年が、にやりと笑った。
カイル=レイヴェン。人懐っこい目つきと、じっとしているのが苦手そうな身振り。四年前に出会ってから、大地が深刻な顔をしていると決まって邪魔をしてくる。
「相談じゃない。右の下翼が少し重い」
「俺なんか全部重いぞ。朝飯が足りなかったせいかな」
「三人分食べてただろ」
「よく見てんなあ。もしかして俺のこと好き?」
「食堂で一番うるさかったから覚えてるだけだ」
カイルは心外だと言わんばかりに胸を押さえた。その芝居がかった仕草に、大地はつい笑ってしまう。
「大地、笑ってる場合じゃないよ。違和感があるなら、発進前に整備の人に伝えよう」
振り返ると、朝倉陽斗が立っていた。地上戦闘用の装備を身につけ、手袋の留め具を確かめている。穏やかな表情で話すが、こういうことには意外なほど譲らない。
陽斗の背中に翼はない。人工羽の適性がないと判定され、地上で戦う訓練を積んできたからだ。本人はそのことを言い訳にしたことがない。
「分かってる。いまから見てもらう」
「それならいいけど。大地は『もう少しなら大丈夫』って言いがちだから」
「お前まで教官みたいなこと言うなよ」
「教官なら、もっと怖く言うと思う」
陽斗の穏やかな返事に、カイルが吹き出した。
大地は整備担当者へ右下翼の違和感を伝え、点検を待つあいだ隣の発進レールを見た。
一人の青年が、留め具を端から順に確かめていた。手順に迷いがなく、余計な動作もしない。周囲のざわめきがその場所だけ避けているようだった。
アレス=ヴァルハイト。
飛行も剣技も優秀な同期だ。かつては装備の調子を競うように話した相手だったのに、今は声をかける理由を探してしまう。
アレスがこちらを見た。目が合う。大地が口を開く前に、相手は視線をレールへ戻した。
「……相変わらず、堅いな」
カイルが小声で言った。
「聞こえるぞ」
大地が返すと、カイルは肩をすくめた。
「全員、集合!」
張りのある声が空気を断ち切った。
キラメル=マキアーツ教官が訓練場へ歩いてくる。鋭い視線が列を一巡しただけで、候補生たちの姿勢が変わった。叱りつけるより先に、見落としを見抜く人だった。
「卒業試験まで、あと二十一日」
その数字に、大地の胸が一度強く鳴った。
「本日は地上・空中合同の対蟲戦闘訓練を行う。地上型は地上戦闘組、飛行型は飛行組が基本担当だ。ただし敵は、お前たちの担当表を読んで動いてはくれない」
教官が訓練区域を示す。岩場を模した地形の向こうに、甲殻を備えた地上型の模擬蟲が待機している。上空には飛行型の標的が旋回していた。
「自分の標的を倒すだけでは足りない。状況を報告し、必要なら引き継げ。勝手な手柄は連携の穴になる」
大地は無意識に拳を握った。
まだ何も始まっていないのに、その言葉が自分に向けられた気がした。
発進準備が整うまで、陽斗は地上戦闘組の配置へ向かった。岩陰の通路を見てから、大地へ手を上げる。
「大地、上から見て変だと思ったら教えて。地上からは見えない場所もあるから」
「分かった。陽斗も無理するなよ」
「それ、そっくり返すよ」
言い終えると、陽斗は仲間のいる岩場へ駆けていった。
整備担当者が戻り、右下翼の調整値を修正したと告げる。大地は翼を一枚ずつ動かした。さっきまでのわずかな遅れが消えている。
「ありがとうございます」
「帰還したら、違和感が再発していないか報告してくれ」
「はい」
人工羽は四枚の翼だけで飛ぶわけではない。腰部の電動推進器が加速を助け、交換式の電池がそれを動かす。神経接続のおかげで翼は身体の延長のように反応するが、装備である以上、点検を怠れば裏切る。
三年生で初めて空へ出た日、大地は翼を開くことさえうまくできなかった。
今は、空気の重さの違いが分かる。
だからといって、失敗しなくなったわけではない。
「左右二名、発進位置へ」
大地が左側の台座へ身を伏せる。右側にはアレスが入った。
頭を前へ、腕を伸ばし、脚を揃える。人工羽を畳んだ姿勢のまま、カタパルトから初速を受け取る。限られた電力を戦闘に残すための発進方式だ。
「……遅れるなよ」
隣からアレスの声がした。
昔と同じ言葉なのに、今は挑発のように聞こえる。
「アレスこそ」
それだけ返して、大地は前を向いた。
「固定確認。翼収納確認。左右、射出準備完了」
通信から地上支援側の報告が入る。
「発進!」
二本のレールが同時に唸った。
背中を押し潰すような加速。視界の端で地面が後ろへ飛ぶ。台座を離れた瞬間、大地は腰部推進器を起動し、四枚の翼を開いた。
風が一気に流れ込む。
右下翼は遅れない。肩をわずかに傾けるだけで、身体が思った方向へ持ち上がった。
隣ではアレスが鋭く上昇していく。まっすぐで、無駄がない。大地が風に乗って曲線を描くなら、アレスは風を切り分けるように飛ぶ。
同じ空を飛んできた四年間。その違いを、大地はよく知っていた。
「飛行型第一群、接近!」
前方で三体の模擬蟲が翼を打ち鳴らした。
アレスが先頭へ飛び込む。手に現れた重厚な剣、不屈剛剣が標的の急所を正確に捉えた。判定灯が消える。
「一体、停止」
落ち着いた報告に、カイルが笑った。
「早いって! 俺の分まで取るなよ!」
両手に風牙双刃を構え、別の標的へ斜めに迫る。脚と刃が触れた瞬間、ぶつかった力の向きが変わり、カイルの身体は横へ滑った。風を生み出したのではない。衝撃を逸らす、彼の賜物の働きだ。
さらに上から、白く細い剣閃が走る。
淡い青の長髪を風になびかせた少女が、標的の関節へ切っ先を合わせていた。氷華細剣。その刃を操るスノウ=フェブラルの動きは、騒がしい空の中でも不思議なほど静かだった。
大地は支給された対蟲刀を握り直す。
彼には、賜物がない。
十四歳で養成所へ入ってから四年間、何度願っても、手の中に特別な武器が現れることはなかった。
それでも、空を読むことはできる。
横風が来る。標的の羽ばたきで気流が乱れる。大地は推進器の出力を抑え、翼の角度だけで身体を滑らせた。模擬蟲の下へ潜り、腹部の判定部へ刃を走らせる。
赤い灯が消えた。
「高良、撃破確認!」
地上支援側からの報告に、大地は短く息を吐いた。
その直後だった。
「地上右側、飛行型一体が低空へ移動!」
通信に警告が入る。
大地は高度を落とさず、まず地上を見た。岩場では陽斗たち地上戦闘組が甲殻の厚い模擬蟲を押しとどめている。その背後へ、飛行型の標的が岩陰を使って回り込もうとしていた。
地上からは、見えにくい。
「アレス、下へ一体!」
「確認している。上空の残りを先に処理する。持ち場を離れるな」
上にはまだ敵がいる。アレスの判断は理解できた。飛行組がばらばらになれば、残った標的に背後を取られる。
だが、低空の一体も待ってくれない。
「地上の後ろが空く!」
「支援側へ通報済みだ。高良、勝手に動くな!」
大地は歯を食いしばった。
陽斗の姿が、岩陰の向こうへ消えかける。
「……俺が行く!」
返答を待たず、翼を絞った。
急降下。風圧が肩を叩く。低空の標的へ追いつく寸前、岩場から吹き上がった横風が翼を押した。
大地は姿勢を立て直そうと、推進器の出力を上げた。
刃が標的の翼の端をかすめる。
判定灯は消えない。
「大地、後ろ!」
スノウの声。
振り返ると、上空に残した標的が追ってきていた。大地が離れた分だけ、カイルの守る範囲が広がっている。
分かっていたはずだった。
自分が一つの穴を埋めれば、別の穴が空く。
白い剣閃が追撃を受け止めた。スノウだ。その隙にアレスが高度を落とし、低空の標的を大剣で断つ。判定灯が消える。
「飛行型、全機停止」
訓練終了の報告が響いた。
大地はしばらく、対蟲刀を握ったまま動けなかった。
帰還後、キラメルは候補生を車両の前に集めた。
「ヴァルハイト。上空を優先した理由は」
「残る標的を放置すれば、飛行組の背後を取られるからです」
「妥当だ。高良。降下した理由は」
「地上戦闘組の死角に入られると思ったからです」
「その危険もあった。では、降下前に上空の担当を引き継いだか」
「……いいえ」
「ヴァルハイト。高良の離脱後、配置を組み直したか」
「遅れました」
「二人とも失敗だ」
キラメルは声を荒らげなかった。
「判断の根拠が正しくても、隊として成立しなければ意味がない。地上と空中は別々に戦っているわけではない。自分が離れるなら、誰が残るかを考えろ」
大地は視線を落とした。
叱責より、指摘された事実の方が痛かった。
解散後、陽斗が地上用の防具についた砂を払いながら近づいてきた。
「大地。あの飛行型、僕らの位置からは見えなかった。気づいてくれて助かったよ」
「結局、倒せなかったけどな」
「それに、上を空けたんでしょう?」
「……うん」
「じゃあ次は、僕らがどう動けばいいかも含めて考えよう。大地だけで全部やらなくていいんだから」
陽斗の言葉に、大地はうなずいた。
その背後から、硬い足音が近づく。
「どうして、いつも一人で決める」
アレスだった。
「地上が危なかったからだ」
「僕も見ていた。危険を無視したわけじゃない」
「なら、あのままでよかったと思うのか?」
「そうは言っていない。君が離れるなら、先に知らせろと言っている」
言い返しかけて、大地は口を閉じた。
それは教官にも指摘されたことだった。
「君の飛行技術は認めている」
アレスは低い声で続けた。
「でも実戦の蟲は、今日の標的より硬いし、速い。賜物がないまま、何でも一人で背負おうとしたら――」
「賜物がないから前に出るなって?」
「違う」
「でも、いつも最後はそこだろ」
アレスの表情がわずかに強張った。
昔は、互いの失敗を笑って話せた。いつから言葉の先を疑うようになったのだろう。
「……卒業試験は、もうすぐだ」
アレスはそれだけ言い残し、背を向けた。
大地は追いかけなかった。
相手の言葉に正しい部分があると分かっていたから、余計に苦しかった。
日が沈んだあとの訓練場には、風の音だけが残っていた。
夜間使用の許可を得た区画で、大地は木剣を振っていた。
踏み込み。切り返し。後退。
昼間、低空の標的へ届かなかった一歩を何度も確かめる。空での失敗なのに、足元を見直さずにはいられなかった。
砂を踏む音がした。
大地は振り向かなかった。近づいてくる足取りが、よく知るものだったからだ。
視界の端で、淡い青の髪が揺れる。
スノウは何も言わず、訓練用の細剣を構えた。
大地も木剣を上げる。
合図はなかった。
細剣の切っ先が胸元へ走る。大地は半歩ずれて受け流し、そのまま間合いを詰めた。スノウは真後ろへ逃げず、斜めへ抜ける。木剣が空を切った。
次の突きが来る。
大地は剣が伸びきる前に踏み込んだ。スノウの切っ先が肩口をかすめ、木剣が彼女の袖の外側で止まる。
二人は一呼吸だけ、そのまま動かなかった。
「……相打ちか?」
「私の方が少し早かったわ」
「厳しいな」
「大地が甘く見ているからよ」
そこでようやく、スノウが小さく笑った。
剣を下ろし、二人は訓練場の端に腰を下ろした。昼間の熱を失った砂が、靴底から冷たさを伝えてくる。
「今日のことを考えていたのね」
「分かる?」
「同じ踏み込みを何度も繰り返していたもの」
大地は水筒の水を一口飲んだ。
「アレスの言うことも、間違ってないんだ」
「ええ。あなたが上空の穴を空けたのは事実よ」
慰めるための言葉ではなかった。それがありがたかった。
「でも」
スノウは続けた。
「地上の危険に気づいたのも大地だった。あの横風の中で、標的へ追いつこうとした飛び方も。私は見ていたわ」
「倒せなかったけど」
「だから次は、先に私へ知らせて。あなたが降りるなら、私が上を引き受ける。そうすれば、判断を無駄にしなくて済むでしょう?」
大地は彼女を見た。
月明かりに照らされた淡い青の髪が、肩のあたりで揺れている。
四年間、同じ訓練場で過ごしてきた。入所したばかりの頃、スノウは自分を姓で呼んでいた。いつから「大地」になったのか、もう正確には思い出せない。
「……よく見てるよな、スノウは」
「四年も一緒にいるもの」
「失敗したところも、できたところも」
スノウは少しだけ目を伏せた。
「怖くても飛ぶことと、何も考えずに飛ぶことは違うわ。大地は、ずっとその違いを考えてきたでしょう?」
「……今日は考えきれなかった」
「そうね。だから次は変えればいいのよ」
大地は夜空を見上げた。
賜物は、今もない。これから発現する保証だってない。
それでも飛びたい。誰かを守るために戦いたい。
その気持ちまで間違いだとは思えなかった。
「でも、明日も同じ失敗をしたら怒るわ」
「アレスより怖そうだ」
「試してみる?」
涼しい顔で返され、大地は思わず吹き出した。スノウもつられて笑う。
やがて彼女が立ち上がり、細剣を構え直した。
「もう一本。さっきの踏み込み、直したいのでしょう?」
「……分かる?」
「分かるわ」
大地も木剣を握り直す。
二人の間を、夜風が抜けていった。
今度はその流れに逆らわず、足を運ぶ。
木剣と細剣が、澄んだ音を立てて触れ合った。
卒業試験まで、あと二十一日。
大地の手には、今夜も賜物は現れない。
それでも、剣を握る理由は消えなかった。




