プロローグ 灰の空
からん、と木箱が倒れた。
「やった!」
高良大地は、両手で握った木の棒を高く掲げた。
工房の隅に置かれた空の木箱。それが今日の敵だった。何度も打ち込まれて角がささくれているけれど、中身は空っぽだし、もちろん反撃もしない。
そんなことは大地だって知っている。
それでも、八歳の腕には少し長すぎる棒を振り下ろし、狙った場所に当てられるようになると、胸が弾むのだ。
「おい、勝ち名乗りは早いぞ」
背後で声がした。
振り返ると、工房の主人が木屑まみれの前掛けを叩いていた。大地の父親とは昔からの知り合いで、忙しいときに邪魔さえしなければ、ここで剣の真似事をするのを許してくれる。
「ちゃんと倒したよ!」
「箱はな。お前の足はどうだ」
「足?」
「今、右足が滑ったろ。相手が本物なら、次の一撃を避けられんぞ」
大地は足元を見た。たしかに右の靴が、床に散った木屑を引きずった跡を残している。
「……次は滑らない」
「そうしてくれ。棚まで倒されたら、俺が泣く」
主人が笑った。
大地はむっとしながら木箱を起こした。棒を構える。狩蟲士なら、こんなふうに剣を握るだろうか。足を開き、胸を張り、空の向こうにいるはずの恐ろしい蟲を思い浮かべる。
「えいっ!」
木箱の縁に棒が当たって、乾いた音が響いた。
「おっと、今のは悪くない」
「ほんと?」
「ああ。だが、狩蟲士になるなら、まず周りを見ることだ」
「見てるよ」
「じゃあ、後ろの椅子にぶつかりかけたのは誰だ?」
大地は答えず、椅子を少し遠ざけた。
工房の開いた扉から、朝の風が入ってくる。焼いたパンの匂いと、荷車の車輪が石畳を鳴らす音。京の町は、いつもどおり目を覚ましていた。
扉の向こう、通りの先には門へ続く広場がある。今日はいつもより人が多い。商団の大きな車が二台停まり、荷を下ろす男たちが声を掛け合っていた。
大地は棒を下ろした。
「……あ!」
車の脇に立つ人影を見つけたのだ。
黒い服が、首元から足首まで身体に沿っている。背中には、細く畳まれた羽が四枚。光の当たるところだけ薄く透け、折り重なった縁がきらりと光った。腰の両側には銀色の筒のようなものがあり、片側には長い刀が下がっている。
狩蟲士だ。
町の自衛団員とは、姿がまるで違う。大地は教本の挿絵で何度も見たし、遠くから本物を見かけたこともある。それでも、こうして近くに立っているだけで胸が高鳴った。
狩蟲士は車の屋根に手を伸ばし、何かを確かめている。飛ぶ気配はない。畳まれた羽は、風に揺れる布よりも静かだった。
「おじさん、見て! 狩蟲士!」
「見えてるよ。門から来た商団の護衛だろうな」
「ねえ、あの羽って、広げたらどれくらい大きいの?」
「さあな。ここで広げられたら、隣の荷車にぶつかりそうだ」
大地は想像してみた。あの四枚がぱっと開き、空へ持ち上がるところを。
「ぼくも、あんなふうになりたい」
「だったら、剣の稽古だけじゃなく、片づけも覚えろ」
「分かってるってば」
言い返しながらも、視線は黒い背中に釘づけだった。
町の上には、灰色がかった細かな網が張り巡らされている。高い塔から塔へ渡された防壁膜だ。陽射しも風も通るから、大地は普段、空に網があることさえ忘れる。けれど、あの羽を広げた狩蟲士が町の外へ出るには、門の近くにある専用の通り道を使うのだと聞いたことがあった。
網の向こうには、どんな景色があるのだろう。
工房の主人に呼ばれるまで、大地はずっと門の方を見ていた。
「大地!」
今度は通りから声がした。
「母さん!」
買い物籠を提げた母親が、工房の前で手を振っていた。
大地は棒をいつもの隅へ戻し、倒れた木箱を起こした。主人に挨拶をして駆け出すと、母親が笑う。
「また狩蟲士ごっこ?」
「ごっこじゃないよ。練習!」
「そうね。今日は何と戦ったの?」
「木箱。三回も勝った!」
「それは木箱も大変だったわね」
「母さんまで笑う!」
大地が口を尖らせると、母親は空いた方の手を差し出した。
「さあ、市場に寄って帰りましょう。お父さんが帰る前に、夕飯の支度をしないと」
「父さん、今日も遅いの?」
「仕事次第ね。でも、帰ってきたら大地の練習の話を聞かせてあげて」
大地はその手を握った。
門の広場を振り返ると、狩蟲士はまだ車のそばにいた。誰かと話しながら、羽の根元を指で確かめている。
大地はいつか自分もあんな黒い服を着て、四枚の羽を背負うところを思い描いた。
その想像が、あまりにも楽しかった。
市場は賑やかだった。
色とりどりの布が店先に垂れ、焼き菓子の甘い香りが漂う。水路の脇には小さな草花が植えられていて、風が吹くと葉がさわさわ鳴った。
頭上の防壁膜は、日光を細かな影にして石畳へ落としている。大地は母親と並んで歩きながら、店先の飴や、見たことのない形の工具や、旅人の荷物に目を奪われた。
「前を見なさい」
「見てるよ」
「その台にぶつかりそうだったでしょう」
「……ちょっとだけ」
母親は笑って、握った手に力を込めた。
焼き菓子を一つ買ってもらい、大地が半分ほど食べたところで、遠くの鐘が鳴った。
かん、かん、かん。
いつもの時刻を知らせる音ではない。短く、急いでいるような鳴り方だった。
「何の鐘?」
母親は答えなかった。
通りの向こうで誰かが立ち止まり、空を見上げた。ひとり、またひとり。露店の主人まで、客との話を途中でやめる。
大地も顔を上げた。
防壁膜の上に、黒い染みのようなものが浮かんでいた。
雲だろうか。そう思ったのは一瞬だけだった。黒い縁が絶えず崩れ、散った粒がまた集まる。生き物の群れだった。
母親が大地の手を強く握った。
「大地、こっちへ」
「母さん、あれ――」
「いいから。口を覆って」
母親は籠の中から布を取り、大地の鼻と口に押し当てた。
そのとき、黒い染みの端がほどけた。
細かな粒が、網目を抜けて降ってくる。
最初は煤のように見えた。大地の袖に落ちた一粒が、六本とも八本ともつかない細い脚を動かすまでは。
「蟲……?」
大地が袖を払うと、今度は頬に何かが触れた。近くで悲鳴が上がる。人々は頭を抱え、上着を振り回し、露店の天幕の下へ駆け込んだ。
けれど、黒い粒はどんどん増えた。
足元で、小さな蟲が別の蟲に食いついている。踏まれたものの周りにも、また黒い粒が集まった。
防壁膜の向こうには、さらに大きな影が現れていた。
羽音が重なり、空気そのものが震えているようだった。
「走るわよ!」
母親に引かれ、大地は駆け出した。
頭上で、ぎし、と聞き慣れない音がした。
振り返ると、灰色の網の一角が大きくたわんでいる。向こう側から太い脚が押しつけられ、網目が伸び、塔へ続く索が震えた。
網はすぐには破れなかった。
大きな蟲が身体をひねり、もう一度のしかかる。
ばつん。
何かが切れる音がした。
裂けた網が風にはためき、ほつれた繊維が降る。黒い甲殻の塊が、裂け目に引っかかりながらも押し入ってきた。
次の瞬間、屋根が砕けた。
大地は母親に抱き寄せられ、石と木片が飛ぶ音を聞いた。
顔を上げると、倒れた荷車の向こうで、巨大な蟲が動いていた。長い脚が屋台を踏み潰す。蟲は地面を覆う小さな黒いものへ頭を下げ、何かを噛み砕いていた。
人を追っているようには見えない。
けれど、逃げ遅れた人がその脚の下にいた。
「見ないで!」
母親が大地の顔を引き寄せた。
別の大きな影が空から降り、先に落ちた蟲へぶつかった。硬いもの同士が割れる音がする。何が何を食べているのか、大地には分からない。
分かったのは、ここにいたら死ぬ、ということだけだった。
橋へ向かう通りは、人で埋まっていた。
「母さん、待って!」
「手を離さないで!」
大地は必死に走った。押されてよろめくたび、母親が引き戻してくれる。
誰かが転んだ。悲鳴が上がる。後ろから人が押し寄せ、母親の肩が大地の前へ押し出された。
握った手が伸びる。
大地は指に力を込めた。
けれど、横から走り込んできた大人にぶつかられ、足が地面を離れた。
「あっ――」
指が滑った。
「大地!」
青い袖が見えた。
「母さん!」
手を伸ばしたが、届かなかった。次々と人が間へ入り、青い袖は見えなくなる。
「母さん! 母さん!」
呼んでも、呼んでも、人の波は止まらなかった。
大地は横道へ押し出され、壁に肩をぶつけてようやく立ち止まった。
知らない路地だった。
喉が痛い。息を吸うたび、埃の味がした。
母親の手の温かさだけが、まだ指に残っている。
戻らなきゃ。
そう思っても、橋がどちらにあるのか分からない。高い建物の向こうで鐘が鳴り、空には黒い粒が舞っていた。
「母さん……」
父親は仕事に行っている。朝、頭を撫でてくれた大きな手を思い出した。父さんなら、きっと自分を見つけてくれる。
そう考えたとき、路地の奥で、かさり、と音がした。
黒いものが壁際を滑るように出てきた。
平たく広がった胴体。濡れた石みたいに光る背中。人の腰ほどもある身体を、何本もの脚がせわしなく運んでいる。長い触角が、壁の割れ目をなぞった。
大地は息を止めた。
蟲は足元の小さな黒い蟲を顎で噛み砕いた。かり、と音がする。
それから、触角が大地の方へ向いた。
逃げなきゃ。
頭ではそう思うのに、足が動かなかった。
蟲が身体を低くした。
次の瞬間、横から白い光が走った。
硬い音が響き、蟲が壁へ叩きつけられる。
大地の目の前に、ひとりの少女が降り立った。
緑色の髪が、頬に貼りついている。
大地より少し年上に見える。黒い服。背中に広がった四枚の羽。腰には、朝、門の広場で見た狩蟲士と同じような銀色の筒がついていた。
けれど、少女の羽の一枚は曲がり、片側の筒からは細い煙が漏れている。
少女は足をかばいながら、大地と蟲の間に立った。
「……下がって」
小さな声だった。
その手には細い剣がある。いつ抜いたのだろう。鞘は見当たらない。大地が瞬きしたときには、もう刃が光っていた。
壁にぶつかった蟲が起き上がる。
少女は羽を開き、身体を横へ滑らせた。銀色の筒が短く唸る。剣が蟲の背をかすめ、硬いものを引っかく音がした。
蟲は止まらない。
少女はもう一度身をひねった。だが、羽の先が壁に当たる。
ぎしっ。
「っ……!」
少女が着地を崩し、片膝をついた。
蟲が向きを変える。
触角が少女へ伸びていく。
大地は周りを見た。壊れた荷箱が倒れ、そこから細長い木片が飛び出していた。
工房の木箱が頭をよぎった。
あのときは、狩蟲士の真似をするだけで楽しかった。棒を振り下ろせば、木箱は簡単に倒れた。
でも、今、目の前にいる少女は本当に戦っている。
剣を握る手が、震えていた。
怖いんだ。
自分と同じように。
それでも少女は、大地を置いて逃げなかった。
大地は木片を引き抜いた。
「こっちだ!」
声が裏返った。
蟲の横から飛び込み、脚へ思いきり木片を振り下ろす。
かん、と情けない音がした。
木片は途中から折れた。
黒い脚には、傷ひとつついていない。
触角が大地へ向く。
蟲の身体が、逃げ道を塞ぐように近づいてきた。
「逃げて!」
少女が叫んだ。
大地は後ずさった。踵が瓦礫に引っかかり、尻もちをつく。
目の前に黒い脚が上がった。
少女が無理やり立ち上がり、二人の間へ飛び込んでくる。
「……この子には」
震える声が聞こえた。
「この子には、近づかせない!」
蟲の脚が止まった。
振り下ろされる寸前の形で、ぴたりと。
大地は折れた木片を握りしめたまま、動けなかった。
路地の入口にも、同じような黒い蟲がいた。いつの間に来たのだろう。そちらも触角を震わせたまま止まっている。
最初の一匹が、じり、と後ずさった。
もう一匹が壁を駆け上がる。
少女の目の前にいた蟲も、身体を低くして引き返した。硬い脚が石畳を叩く音が、遠ざかっていく。
少女は追わなかった。
剣を構えたまま、何もいなくなった路地を見つめていた。
「……どうして?」
大地が聞くと、少女はゆっくり首を横に振った。
何が起きたのか、彼女にも分からないらしかった。
やがて少女が振り返る。
「……怪我は?」
「たぶん、してない」
大地は手元の折れた木片を見た。
木箱なら倒せたのに。
あの蟲には、何もできなかった。
「……ごめん」
少女が目を瞬かせる。
「助けたかったのに、ぼく……」
続きは喉に詰まった。
少女は何か言いかけ、結局、大地の手首をそっと握った。
「……行こう。まだ危ない」
少女は飛ばなかった。
羽の一枚が傾いたままで、歩くたびに顔をしかめる。大地は彼女の歩幅に合わせ、足音を小さくした。
「お姉ちゃん、狩蟲士なの?」
「……そう見える?」
「羽があるから」
「……うん」
「名前は?」
「……ユグ」
「ユグ。ぼくは高良大地。大地って呼んで」
「……大地」
その声を聞いた途端、母親のことが胸に戻ってきた。
「ぼく、母さんとはぐれちゃったんだ」
足が止まる。
「橋の近くで、手が離れて……。父さんも仕事に行ったまま。どこにいるか分かんない」
ユグは振り返った。
「……戻る道は?」
「分かんない。母さん、ぼくを探してるかもしれないのに」
涙がこぼれた。
ユグはすぐには何も言わなかった。遠くで何かが崩れる音がして、二人とも肩を震わせる。
「……まず、安全なところへ」
「でも――」
「大地がどこにいるか、分かるようにしよう。それから……探してみる」
「母さんを?」
「……うん」
ユグは、必ず見つけるとは言わなかった。
それでも大地は、その言葉にすがった。
水路沿いの道をしばらく進むと、地下へ続く階段があった。壁には避難場所を示す印が描かれている。
ユグが先に降り、暗がりを確かめた。大地が続くと、短い通路を挟んで二枚の分厚い金属扉が見えた。
ユグは内側の扉を開け、部屋の中を見回した。壁際には水の容器と保存食の包みが積んである。小さな明かりが天井から下がり、静かな音を立てていた。
「ここなら……すぐには破られないと思う」
ユグは扉を見上げた。
「ユグもここにいるよね?」
少女は答えなかった。
「……外に、まだ人がいる」
「危ないよ! 足だって怪我してる!」
「……うん」
「だったら、行かないでよ」
大地は黒い袖をつかんだ。
さっきまで剣を持っていた腕は細く、触れると少し震えていた。
ユグはしゃがみ、大地と目を合わせた。
「お母さん、どんな人?」
「茶色い髪で、青い服。買い物籠を持ってた。でも、途中で落としたかも」
「……お父さんは?」
「背が高くて、手が大きい。朝、仕事に行った。どこで働いてるかは知ってるけど、そこにいるか分かんない」
ユグは一つずつ聞き、頷いた。
「……会えたら、大地がここにいるって伝える」
「母さんにも、父さんにも?」
「……うん。ほかの人にも」
大地は袖を握る手を緩めた。
「ユグも、帰ってきて」
少女は大地を見つめた。
「……また会える」
「約束?」
「……うん」
大地は小さく頷いた。
ユグは扉の閉め方を教えた。大地が同じ手順を繰り返せるまで見届け、通路へ出ていく。
「ユグ!」
振り返った少女に、大地は言った。
「気をつけて!」
ユグはかすかに頷いた。
金属の扉が閉まり、重い音だけが残った。
最初のうちは、少し物音がするたびに扉へ走った。
ユグが帰ってきたのかもしれない。母親が名前を呼んでいるのかもしれない。父親が迎えに来たのかもしれない。
けれど、何度耳を澄ませても、知っている声は聞こえなかった。
遠くで何かが砕ける音がする。
しばらくして、金属を引っかく音がした。
ぎり、ぎり。
大地は部屋の奥へ後ずさった。外側の扉が一度、鈍く震えた。
あの黒い蟲だろうか。それとも、屋根を潰したもっと大きな蟲だろうか。
見えないから、分からない。
大地は膝を抱え、音が止むまで動かなかった。
二枚の扉は開かなかった。
そのことが分かってから、ようやく泣いた。
ユグがあの路地で蟲を退かせてくれなかったら、ここへ来られなかった。
この扉がなかったら、ここでも生きていられなかったかもしれない。
水を飲み、保存食を少しずつ食べた。眠って、目を覚まして、また眠る。小さな明かりは変わらず、昼か夜かも分からなくなっていった。
母親は今、どこにいるだろう。
父親は、大地を探しているだろうか。
ユグは、あの傷ついた羽で無事に歩けただろうか。
扉を開けて探しに行こうとしたこともあった。
けれど、金具に手を掛けると、路地で見た黒い脚が浮かんだ。木片が折れたときの、軽い音まで思い出した。
結局、開けられなかった。
「母さん……」
返事はない。
「父さん……」
返事はない。
「ユグ……」
また会える。
ユグはそう言った。
大地は忘れないように、何度もその言葉を繰り返した。
人の声が聞こえたのは、何度目かの眠りから覚めたときだった。
「おい! 誰かいるか!」
大地は跳ね起きた。
「いる! ここにいるよ!」
通路で金具が鳴る。外側の扉が開き、続いて内側の扉の向こうに明かりが差した。
砂埃まみれの外套を着た男が二人、立っていた。四枚の羽も、黒い戦闘服もない。
「子供だ……!」
ひとりが驚いた声を上げる。
大地は駆け寄った。
「母さんは? 父さんは? 緑の髪の女の子、見なかった? ユグっていうんだ!」
男たちは顔を見合わせた。
「俺たちは商団の者だ。通れる道を探しながら、取り残された人がいないか確かめてる」
「じゃあ、見つけた?」
男はすぐに答えなかった。
「……俺たちが今、保護できたのは君だけだ」
「ほかには?」
「崩れて入れない場所もある。京の全部を調べられたわけじゃない」
大地はその言葉を胸に抱えた。
「じゃあ、まだいるよ。母さんも、父さんも。ユグだって」
男は否定しなかった。
避難場所の外へ出ると、焦げた匂いがした。
水路の水は止まり、石畳は割れ、建物は知らない形に崩れている。頭上では防壁膜の裂けた端が風に揺れていた。朝にはあんなに賑やかだった町が、今は自分の知る京に見えなかった。
道の先に、商団の車が待っていた。
「行こう。まだここは危ない」
男が手を差し出した。
大地は首を振る。
「行かない」
「……そうか」
「母さんが探しに来る。父さんも。ユグだって、また会えるって言ったんだ。ぼくがいなくなったら、みんな困る!」
男はしゃがみ、大地と同じ高さになった。
「待っていたいよな」
大地は何度も頷いた。
「でも、君をここに一人で残せない。俺たちも、ずっとここにはいられないんだ」
「もう少しだけ……」
「君の家族も、その女の子も、どうなったか俺には分からない。必ず会えるとは言えない」
胸が痛んだ。
「ただ、君が生きていれば、また探しに来ることはできる」
大地は俯いた。
母親の手を離してしまった。
父親の居場所も分からなかった。
ユグを助けようとして、木片を折っただけだった。
あの少女の剣を握る手が震えていたことを思い出す。
怖くなかったわけじゃない。
怖いのに、大地の前に立ってくれた。
「……ぼく、弱いんだ」
男は黙って聞いていた。
「でも、いつか強くなったら……京に戻ってきてもいい?」
「ああ。自分の足で戻れるようになったらな」
差し出された手は、大きかった。
「だから今は、生きて出よう」
大地はもう一度、町を振り返った。
工房の木箱は、まだあそこにあるだろうか。
母親と歩いた市場は、どこだっただろう。
ユグは、どこまで行けただろう。
何も答えてくれない町を見つめてから、大地は男の手を握った。
車が動き出す。
窓の外で、京の建物が少しずつ遠ざかっていく。
大地は膝の上で両手を握った。
助けてもらうだけでは、嫌だった。
次に誰かが倒れたとき、木片を振り回すことしかできない自分ではいたくなかった。
母親も、父親も、ユグも、いつか探しに戻りたい。
そして、もし誰かが助けを求めていたら、今度は自分がその前に立ちたい。
そのためには、まず生きなければならない。
大地は顔を上げた。
遠ざかる京の上で、破れた防壁膜が風に揺れていた。
朝には青かった空が、今は灰色に見えた。




