3-5、温泉で息抜き
温泉は、硫黄のにおいがする。辺りに独特のかおりがただよい、むっと熱気が籠っている。
「あれは、なにをしてるの?」
「あれは、温泉卵を作ってる」
「へえ、温泉卵」
「そ。黄身が半熟で、白身もとろとろ」
「ええ、食べてみたいなあ」
「レイティア、おまえは温泉よりも食い意地かよ」
アンドレアもリラックスしているようで、久しぶりに言葉が砕けている。
レイティアは、袖をまくり上げて、温泉に手を入れてみる。あたたかい、体の芯から温まる。
「肌がつやつやになるらしいよ」
クレスがにこりと笑った。
「クレス。私の肌って、そんなにつやがない?」
「いや、そうじゃなく」
「……というか、クレス、ちゃんと食べてる?」
「え?」
「クマがひどい」
「いやあ、曲がりなりにも聖女の騎士だからね。それなりの苦労はあるよ。アンドレアはああ見えて王子だから、騎士の仕事になじむのも早いんだろうけれど」
クレスもまた、温泉に手を浸けた。
「レイティア。アンドレアが騎士でよかったね」
「え?」
「いや。俺がレイティアの騎士だったら、頼りなかったねって」
「そんなことない!」
レイティアは、なにをかくそう、クレスを救うために動いているのだから。だから、クレスがナディアの護衛騎士に選ばれて、ほっとしていた。
これで二人が心を通わせれば、クレスが闇落ちするルートは絶たれる。
「それじゃあ、俺たちは護衛だから。ナディアと温泉、楽しんでおいで」
クレスは暗い顔で、その場をあとにする。その背中に一抹の不安を覚えるのは、なぜだろうか。
ナディアと二人で温泉を堪能した後は、近くの飲食店で食事をした。
「温泉のお湯で小麦を練った麺……! 黄色い!」
レイティアがいちいち反応するものだから、ナディアもクレスも、アンドレアも、今までの疲れなど吹き飛ぶというものだった。
レイティアは無自覚だろうが、レイティアは放っておけないなにかがある。ひとりにすると、なにをしでかすかわからない。
庇護欲に似た感情だった。
「温泉はアルカリ性だから、小麦が反応して黄色になるんだ。あとは、なすとか紫キャベツも、温泉で色が変わるね」
「へえ、面白い」
レイティアは、飲食店の主人に瓶をいくつかもらって、温泉のお湯をそれに入れて持ち帰ることにした。
「なんだよ、そんなもの」
「だって、帰ってなにか、料理に使えないかなって」
アンドレアはそういえば、最初のころレイティアの料理を喜んでくれたのに、最近はふるまうことも許されない。
せめて、自分を命がけで護衛するアンドレアに、なにかできないかと考えたのだ。
……それは、なぜ?
「あ、アンドレア」
「なんだよ」
「いや、なんでもない」
なんでもない、わけがない。
いつからだ。いつからレイティアは、アンドレアをこんなにも頼もしく関じていたのだろうか?
温泉旅行は、一生の思い出になるだろう。そんなことを思いながら、ふいに、飲食店に農夫が入店する。
隣に座った二人の農夫は、声を大にして、愚痴をこぼす。
「ああもう、腐葉土が、売り物にならんよ」
「だな。温泉があるからこの国には観光客は増えたが……その分、飲食店に納める農作物が追い付かないっていうのに。肥料なしでどれだけ育つか」
どこの国でも、人々は生きていくのに精いっぱいなのは同じだ。
レイティアはそんなことを思いながら、とあることを思い出す。
ナディアがじゃがいもの毒に倒れた日のことだ。
あの日のじゃがいもは、学院の畑でとれた。
それが毒になることを、農夫なら知っているかもしれない。
「アンドレア。クレス。ナディアも。この後、露天で食べていかない?」
「レイティアが誘うなんて珍しいね」
ナディアは乗り気なようで、クレスとアンドレアに目配せした。
二人とも、「仕方ないな」といったふうに首肯する。
「じゃあ決まりね。行こう!」
この国の露店は、たいそうおいしい料理が並ぶと聞く。
レイティアは料理に思いをはせる――ふりをして、この国の人々から毒について聞き込みをするつもりなのだ。
季節はすっかり移り替わった。
町に出るとなって、レイティアが化粧直しをしてきたことに、アンドレアは正直面食らった。ついでに、服も『それなりの』一目見てわかる上等なものに着替えている。
「え、おまえがおしゃれするとか思わなかった」
「いや……私だって都会に行くときはそれなりの身支度はするわよ? 特に誰かと一緒に出掛けるときは、隣を歩くひとに恥かかせないように――」
言ってて恥ずかしくなったのか、レイティアは言葉途中で露店へと向かってしまう。
これは、レイティアがおしゃれをするのはアンドレアのため、と取っていいのだろうか。
瞬間、ぶわっと汗が噴き出した。初冬の町がさほど寒くなかったからかもしれない。
「待てよ、レイティア」
「もう、露天しまっちゃうよ」
レイティアが笑って、アンドレアも笑う。ナディアもクレスも。
温泉を離れてしばらく歩くと、露天につく。ナディアは露店街の門の前で大きく息を吸い込んだ。
「ああ、これが異国の匂い」
「もう、大げさ。早く行こう。最初はどこに行くか決めてるの?」
せかされ、ナディアは露店のガイドの羊皮紙をバッグから取り出した。
「まずは、焼き小籠包」
「わ、これってさ、すごく肉汁が飛ぶやつだ」
「わかってるね。ここ最近で一番注目の異国料理よ。あとはベタだけど肉まんあんまんも食べたいし、麻婆豆腐に胡麻団子、豚の角煮に上海ガニ……」
言いながら、ナディアのお腹がきゅるると鳴いた。
「ナディア、食い意地」
「仕方ないじゃない。昼ごはんの時間よ?」
ナディアの笑みに、アンドレアがはっと鼻を鳴らす。
「食い意地なら、レイティアも負けてないだろ」
「アンドレア? なんで意地悪言うかなあ」
しかし、異国の露店は物珍しいものばかりで、正直に言えばアンドレアも興味があった。
傍ら、クレスはどうにも、ナディアばかり見ている。
「クレス? 露店は嫌だった?」
「ああ、いや……大丈夫。ちょっと気を張りすぎていただけで」
それはそうだ、クレスは護衛騎士なのだから。この温泉旅行だって、聖女が殺されないように張りつめているのだろう。
「アンドレアとは大違いね」
「おまえな、俺だって常に周りに気を使って……って、はあ。もう先進んでるし」
いくらアンドレアがレイティアを思っていても、レイティアはそれに気づかない。
アンドレアはクレスを見る。二人で、やれやれと肩をすくめた。
気を取り直して、アンドレアは再びレイティアに近づく。小さい。小さい身体が、揺れている。
これいいね、これもたべよう。そう言いながらアンドレアに向かって笑みを向けるレイティアに、アンドレアは得も言われぬ気持ちを抱いた。
今までは、外出と言ったら聖女の訓練くらいだったから、久々の自由を満喫するレイティアは無邪気で愛らしい。
「アンドレア?」
「あ。ああ。そうだ。おまえ、露店で、なにか企んでるのか?」
話をそらした。レイティアが一瞬硬直して、ナディアのガイド紙から顔を離して、
「少し、気になることがあるの」
それはなに、とは聞けなかった。きっと、今回の悪魔の件だとアンドレアは思った。
そうだ、レイティアが楽しむためにこの散策を提案したなんて、どう考えてもあり得ない話だった。
レイティアの表情をうかがうように、アンドレアは少しだけ膝を曲げた。レイティアが一歩前に進み、アンドレアを振り返る。
「行こっか」
「あ、うん。だな、行列ができる前に」
いつも通りのレイティアの声音にほっとして、アンドレアとレイティアはまず、焼き小籠包を食べに行った。
すでに行列ができた最後尾に並んで、小籠包を焼いている大きな鉄なべに目を向けた。
「すごいね。ここの焼き小籠包、城で完全に再現するのは無理だろうね」
「だな。やっぱりああいう店用の道具と火力にはかなわないもんな。てか、作るつもりだったのかよ」
「うん。だって、アンドレアが喜ぶかなって……あ、今のなし」
ほう、とアンドレアがレイティアをまじまじと見た。かわいいことを言ってくれる。
しかし、今はクレスとナディアも一緒にいるため、感情を悟られないように表情を引き締める。
十分ほどして、ようやくアンドレアたちの順番が来た。
この後もたくさんの露店を食べ歩きする予定のため、今回はふたりで一皿の注文にすることにした。
クレスとナディア、アンドレアとレイティアの二人一組だ。
それが、間違いだった。
慣れない箸を二膳ずつもらったものの、ふたりでひとつの器しかないと、この小籠包の場合かなり食べるのが難しい。
アンドレアはレイティアに器を使わせて、自分は手皿で小籠包にかぶりついた。
事前情報として、この小籠包は肉汁が売りで、かじりついた瞬間ぴゅっと飛び散ることはアンドレアも知っていた。
だから、肉汁が飛び散らないように小さくかじりついたのだが、
「んむっ!?」
見事に肉汁が飛散して、しかもアンドレアの服にシミを作った。
かたらわ、レイティアが笑い転げている。
「ほらもう、だから言ったじゃない。交換でお皿使って食べようって」
レイティアが自然な様子でハンカチを取り出し、アンドレアの服の汚れをぬぐっている。その間、アンドレアは熱々の小籠包にかぶりつき、肉汁をズズ、とすすっている。
まったくかっこ悪い姿を見せてしまって、穴があったら入りたかった。
「悪い。ハンカチ汚して」
「いいよ。じゃあ、アンドレアが先に食べていいよ」
アンドレアの洋服にはいまだ肉汁のシミが残っている。レイティアの花柄のハンカチも、肉の油でべとべとだった。
「ハンカチ、買って返す」
「いいって。ハンカチは汚れを拭くためにあるんだし。それに、今日の温泉だってアンドレアのねぎらいなんだもん。それで帳消し」
「はっ、そういうことなら。じゃあレイティアも、俺に遠慮せずに食べたいもの言えよ?」
「りょーうかい」
ふふ、と笑ってレイティアはアンドレアが小籠包を食べ終わるのを見ている。
こんな風に笑うひとだったのか。こんな風に女の子みたいに。
「アンドレア、私になにかついてる?」
「あ、いや」
「もう、なに」
なるべく熱々のうちにレイティアに小籠包を渡すために急いで食べて、アンドレアはレイティアに小籠包の皿を渡した。
「レイティアはよく肉汁こぼれなかったな」
「……実は、こぼしてコートの袖が汚れました」
へへ、とまた、レイティアが笑った。見れば、コートの袖が少しだけくすんでいて、アンドレアは小籠包を頼んだことを少しだけ後悔した。
「やっぱ、クリーニング代……」
「もう、アンドレア気にしすぎだよ。これもあわせていい思い出。私今ね、すっごく楽しい」
レイティアが大きな口を開けて、小籠包にかじりつく。ぴゅっと肉汁がこぼれ出て、レイティアは笑うのと食べるので忙しそうだった。




