(一)起きたくない
◆ 三歳児なんだねえ
うちの人間が、光る板を見ながら言った。
「猫の知能って、人間の三歳児くらいなんだって」
長椅子で隣に座っていたシジミは、片方の耳を動かした。
うちの人間は画面に書かれていることを読み続ける。
「簡単な言葉を覚えたり、数を少し理解したりできるらしいよ」
それから、シジミの頭を撫でた。
「シジミは三歳児なんだねえ」
ずいぶんうれしそうである。
自分より年下だと思えることが、そんなに楽しいのだろうか。
もっとも、人間の知能と猫の知能を単純に比べるなら、三歳児くらいというのも、まったく見当違いではないのかもしれない。
シジミは、人間の言葉をすべて理解しているわけではない。
名前。
食事。
おやつ。
待て。
駄目。
おいで。
病院。
風呂。
そのほかにも、毎日の生活でよく使われる言葉なら分かる。
声の調子や、うちの人間が見ている方向、手に持っているものまで合わせれば、もう少し複雑なことも判断できる。
だが、人間が長々と話している文章を、一言一句正確に理解しているかと言えば、そうではない。
うちの人間が外から帰ってきて、
「今日は仕事でこんなことがあって、あの人がこう言って、それで私がこうしたんだけど」
と話し始めても、シジミに分かるのは、
仕事。
嫌な人間。
疲れた。
おそらく、その程度である。
細かな事情までは分からない。
そもそも、知らない人間の名前をいくつも出されても困る。
シジミは、その者たちの匂いを嗅いだこともなければ、姿を見たこともない。
それでも、うちの人間は、
「それでさ、ひどいと思わない?」
と同意を求めてくる。
何がひどいのかは分からない。
だが、うちの人間が不満を抱いていることは分かる。
そのようなときは、短く鳴いておけばよい。
うちの人間は、
「だよね」
と勝手に納得する。
人間の言葉を完全に理解できなくても、人間を扱うことはできる。
とはいえ、文字は読めない。
数字も、細かな計算まではできない。
昨日と今日の違いは分かるが、七日前と八日前を正確に言い分けることは難しい。
その意味では、うちの人間のほうが知能は高いのだろう。
うちの人間は文字を読む。
数字を計算する。
遠くの人間と話す。
見たことのない場所まで、一人で移動する。
毎日決まった仕事をし、その代わりに紙や数字を受け取る。
それらを使って、食事や服や家を手に入れる。
猫にはできないことを、いくつもできる。
年月だけで比べても、うちの人間のほうが長く生きている。
シジミよりも先に生まれ、シジミよりも多くの季節を見てきた。
知っていることも多い。
できることも多い。
そこは認めてよい。
だが、精神年齢は別である。
知能が高いからといって、精神まで大人とは限らない。
多くの言葉を知っていても、自分の気持ちを扱えるとは限らない。
計算ができても、欲しいものを我慢できるとは限らない。
長く生きていても、同じ失敗から学ぶとは限らない。
残念ながら、精神年齢については、シジミが生まれて一年ほどで、うちの人間を追い抜いてしまった。
◆ 起きたくない
その日の朝も、そうだった。
うちの人間の枕元で、鳴る箱が音を出した。
うちの人間は布団の中から腕だけを伸ばし、音を止める。
少しすると、また鳴る。
また止める。
三度目に鳴ったところで、布団の中から低い声が聞こえた。
「起きたくない……」
起きなければよい。
外へ行く必要があるなら、起きればよい。
選ぶべきことは、そのどちらかである。
だが、うちの人間は起きないまま、
「仕事行きたくない」
「でも休めない」
「あと五分だけ」
と、布団の中で何度も同じことを言う。
五分たてば、また五分を欲しがる。
時間を細かく分ければ、起きなくてもよくなると思っているらしい。
シジミは、食事の時間になれば起きる。
眠くても起きる。
食べ終わってまだ眠ければ、もう一度眠る。
簡単なことである。
眠いことと、起きる必要があることは、同時に存在できる。
眠いから起きられないわけではない。
眠いが、起きる。
それだけだ。
うちの人間は、それができない。
布団から出たくないという気持ちと、仕事へ行かなければならないという事実を前にして、毎朝長い話し合いを始める。
話し合っているのは、うちの人間一人である。
出たくない。
出なければならない。
眠い。
遅れる。
寒い。
あと少し。
どれだけ言葉を重ねても、最後には起きるしかない。
それなら、最初から起きればよい。
ようやく布団から出たうちの人間は、栗色の髪を乱したまま、洗面所へ向かった。
鏡を見て顔をしかめる。
「ひどい顔」
寝たのは、うちの人間である。
夜遅くまで光る板を見ていたのも、うちの人間である。
昨夜、
「これを見たら寝る」
と言ったあと、さらにいくつも見ていた。
眠る時間が遅くなれば、朝は眠い。
それは前の日から分かっていたはずだ。
だが、夜のうちの人間は、朝のうちの人間のことを考えない。
朝になると、昨夜の自分へ文句を言う。
同じ人間なのに、ずいぶん仲が悪い。
シジミが子猫だったころ、夜中に家の中を走り回ったことはある。
棚へ登った。
布を引っ張った。
床の上を転がるものを追いかけた。
だが、朝になって眠ければ、そのまま眠った。
自分で夜更かしをしておきながら、朝へ文句を言ったりはしない。
そもそも猫は、眠れるときに眠る。
人間のように、眠る時間を自分で削り、その結果へ不満を抱くことはない。
うちの人間は身支度を終え、家を出た。
※第18話「精神年齢」は全三回です。
続きます。
作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。
※ネタバレ範囲にご注意ください。
https://www.simulationroom999.com/blog/humans-foolish-top




