(二)犬ならわん
◆ そんにゃことにゃい
次に映ったのは、黒い猫だった。
うちの人間がすぐにシジミを見る。
「シジミみたい」
黒いというだけである。
目の色も違う。
耳の形も違う。
顔つきも違う。
体格も違う。
首輪も違う。
人間は自分たちのことなら、髪型が少し違うだけでも別人だと分かる。
だが、黒い猫はすべてシジミに似ているらしい。
画面の黒猫は、閉じた扉の前に座っていた。
何度も鳴いている。
開けろ。
向こう側へ行く。
早くしろ。
声の意味は明確だった。
字幕が表示される。
『ここを開けてほしいにゃ』
まだ普通である。
余計な語尾はついているが、意味はそれほど外れていない。
画面の人間が、
「さっき入ったばかりでしょ」
と言う。
黒猫が鳴き返す。
今は出たい。
先ほど入りたかったことと、今出たいことは別である。
状況が変われば、望むことも変わる。
それだけだ。
字幕が変わった。
『そんなことないにゃ』
少し妙だが、まだ読める。
ところが黒猫がもう一度鳴くと、次の字幕が出た。
『そんにゃことにゃい!』
シジミは顔を上げた。
にゃへのこだわりが強すぎる。
一つの言葉の中に、二つも入っている。
「そんな」の「な」を「にゃ」へ変える。
「ない」の「な」まで「にゃ」へ変える。
語尾だけでは足りなくなったらしい。
猫らしさを増やすために、言葉の途中までにゃへ変えている。
だが、そんな話し方をする猫はいない。
少なくともシジミは聞いたことがない。
猫同士の会話で、
「そんにゃことにゃい」
などと言えば、何をふざけているのかと思われるだろう。
うちの人間は、字幕を見て声を上げて笑った。
「そんにゃことにゃい、だって」
言っていない。
黒猫は単に、扉を開けろと言っている。
人間が勝手に、会話の形を作っただけである。
しかも、猫らしく見せようとした結果、言葉そのものを崩している。
猫は人間の言葉を少し不自由に話すと思われているのだろうか。
猫がもし人間の言葉を使えるなら、もっと普通に話す。
言葉の途中へ、むやみに鳴き声を入れたりはしない。
人間だって、猫語を話すときに自分の声を混ぜたりはしないだろう。
もっとも、そもそも猫語を話せない。
◆ 見たままを文字にする
うちの人間は次の動画へ進んだ。
子猫が箱の中から顔を出している。
字幕には、
『ここはぼくのおうちにゃ』
と表示されていた。
なぜ僕なのだろう。
その子猫が雄か雌か、シジミには画面だけでは分からない。
動画を作った人間には分かっているのかもしれない。
だが、人間は猫へ勝手に一人称をつける。
雄なら僕。
少し偉そうなら俺。
年を取っていれば儂。
上品そうなら私。
そして、どれにも語尾へにゃをつける。
猫の話し方を聞き取れないのに、性格に合った話し方を決めたつもりになっている。
子猫は箱から出ようとして、縁に前足をかけた。
だが、箱が少し傾き、そのまま横へ倒れた。
字幕が出る。
『失敗したにゃ』
人間の笑い声まで重ねられる。
子猫は失敗したとは言っていない。
箱が動いた。
驚いた。
周囲を確認している。
それだけである。
自分の行動へいちいち説明をつけているわけではない。
猫は箱から落ちるたびに、
「失敗した」
などと報告しない。
落ちたことは、自分でも分かっている。
見ていた者にも分かる。
わざわざ言う必要がない。
人間は、映像に文字がなければ不安なのだろうか。
見れば分かることまで、猫の言葉として表示する。
猫が歩けば、
『お散歩するにゃ』
眠れば、
『眠くなったにゃ』
食べれば、
『おいしいにゃ』
驚けば、
『びっくりしたにゃ』
そのままである。
何も新しいことを言っていない。
しかも、猫本人は言っていない。
人間が見たままを文字にし、最後へにゃをつけただけだ。
それで猫の心の声になるらしい。
ずいぶん簡単である。
シジミも、うちの人間の行動へ勝手に文字をつけてみた。
長椅子へ座る。
『座るひと』
菓子の袋を開ける。
『また食べるひと』
光る板を見続ける。
『お風呂を先延ばしにするひと』
そのような文字を頭の上へ出されたら、うちの人間は嫌がるだろう。
行動を見ただけで、考えていることまで決めないでほしいと言うはずだ。
猫には、それをしてよいと思っている。
◆ 犬ならわん
うちの人間は、次に犬動画を見始めた。
猫動画を見ていたはずなのに、途中から犬が出てくる。
人間は一つ見始めると、次に表示されたものをそのまま見る。
自分で選んでいるようで、光る板に選ばされているのかもしれない。
画面には、大きな犬が映っていた。
人間が紐を持つと、犬は勢いよく立ち上がる。
尻尾を振る。
足踏みをする。
扉と人間の間を何度も行き来する。
そして、大きな声で鳴いた。
「遊ぼ!」
続けて鳴く。
「外! 行こ!」
また鳴く。
「走ろう!」
犬の言葉は分かりやすい。
声が大きい。
体全体を使う。
同じことを何度も言う。
細かな違いは聞き取りにくいが、何を望んでいるかはすぐ分かる。
犬はたいてい、
「遊ぼ!」
「走ろう!」
「一緒に行こう!」
と言っている。
だが、画面の字幕には、
『お散歩に行きたいわん!』
と表示されていた。
やはりついた。
猫ならにゃ。
犬ならわん。
人間は、動物の種類が分かれば語尾も決まると思っている。
シジミは犬から、
「走ろうわん!」
などと言われたことは一度もない。
近所の犬は、シジミを見つけるとよく鳴く。
遊ぼ。
一緒に走ろ。
どこ行くの。
今日は何するの。
待って。
そのようなことを、息をする暇もないほど続けて言う。
だが、最後へわんをつけたりはしない。
犬が出す声の一つを、人間がワンと聞いているだけである。
そのワンを、人間の言葉の最後へつけたところで、犬語にはならない。
猫のにゃも同じだ。
人間が猫の声をニャーと聞いた。
だから、猫が人間の言葉を話すなら、語尾にもにゃをつけるはずだ。
その考え方なら、カラスは、
「腹が減ったカー」
と話すのだろうか。
スズメは、
「飯を出せチュン」
と話すのだろうか。
ウグイスは、
「オレ、イケてるホーホケキョ」
と言うのだろうか。
ずいぶん長い語尾である。
うちの人間は犬動画を見ながら笑った。
「お散歩行きたくて仕方ないんだね」
それは合っている。
正確には、散歩というより、とにかく外へ出て走りたいと言っている。
だが、人間は少なくとも犬の望みを理解した。
語尾へわんをつけなくても、行動を見れば分かる。
それなら、なぜ文字へ余計なものを足すのだろう。
犬らしいから。
猫らしいから。
おそらく、その程度の理由である。
※第17話「猫動画」は全三回です。
続きます。
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