(三)別の猫みたい
◆ 戻ってきた
乾かされるうちに、シジミの毛が少しずつ元へ戻っていった。
体へ張りついていた毛が起き上がる。
首の周りが広がる。
胸元がふくらむ。
脇腹も、いつもの形へ近づく。
実際の体が大きくなったわけではない。
毛の間へ空気が戻っただけである。
うちの人間は手で毛を整えながら、その変化を見ていた。
そして、驚いたように言う。
「あ、戻ってきた」
どこにも行っていない。
最初からずっとここにいる。
細くなってもいない。
戻ってもいない。
濡れた。
乾いた。
それだけである。
人間は、見た目が変わるたびに、中身まで変わったように言う。
髪を切れば、雰囲気が変わった。
服を替えれば、別人みたい。
顔へ色を塗れば、今日は大人っぽい。
猫の毛が濡れれば、細くなった。
乾けば、戻った。
外側が変わっただけで、同じ者である。
シジミは風を受けながら、うちの人間を見た。
うちの人間も、風呂から出たあとはずいぶん姿が変わる。
髪が濡れ、いつもより細くまとまる。
顔へ塗っていたものも落ちる。
柔らかな部屋着へ着替える。
それでもシジミは、
「うちの人間! 顔が違う!」
とは言わない。
濡れた髪を見て、
「頭が小さくなった!」
とも驚かない。
乾けば元へ戻ることを知っているからだ。
毎日のように見ている。
一度覚えれば、次の日も覚えている。
猫は学習する。
うちの人間は、週に一度見ているシジミの姿を、毎回初めて見たように驚く。
人間は猫より記憶力がよいと言う。
本当だろうか。
◆ いつもの丸いシジミ
毛が完全に乾くと、うちの人間は大きな音の出る道具を止めた。
急に部屋が静かになる。
シジミは耳を立てた。
ようやく周囲の音が戻ってきた。
庭で鳥が鳴いている。
隣の部屋で小さな機械が動いている。
外を誰かが歩いている。
うちの人間の服がこすれる。
いつもの世界である。
うちの人間はシジミの体を両手で撫でた。
毛がふわりと広がる。
「ふわふわになったね」
それは認めてもよい。
洗う前より毛が整っている。
余計な匂いも落ちた。
少し違う匂いがついたことは気になるが、あとで自分で毛づくろいをすればよい。
うちの人間は満足そうにシジミを眺めた。
「いつもの丸いシジミに戻った」
だから、戻っていない。
丸いのは毛である。
シジミは元から、先ほど見た大きさだ。
それを毛が覆っている。
人間は、ふわふわしたものを見ると、中まで詰まっていると思うらしい。
布団。
大きな上着。
猫。
外側が広がっていれば、その分だけ中身も大きいと思う。
うちの人間はシジミを抱き上げ、鏡の前へ連れていった。
「ほら、きれいになったよ」
シジミは鏡の中の自分を見た。
黒い毛。
金色の目。
首輪。
いつものシジミである。
隣には、髪を後ろでまとめたうちの人間が映っている。
風呂場でシジミの水を浴びたせいで、頬の横に細い髪が何本か張りついていた。
袖も少し濡れている。
うちの人間は、それに気づくと眉を寄せた。
「私までびしょびしょ」
自分で風呂へ入れた結果である。
シジミのせいではない。
うちの人間は鏡の前で髪を直し、濡れた袖を見た。
その姿を見ても、シジミは驚かない。
普段と少し違っていても、うちの人間であることは変わらない。
見た目だけで中身まで別のものになったとは思わない。
◆ 別の猫みたい
うちの人間はシジミを床へ下ろした。
シジミはすぐに座り、前足を舐める。
風呂でついた匂いを、自分の匂いへ戻さなければならない。
うちの人間はその様子を見ながら、光る板を取り出した。
何かを確認している。
どうやら、風呂に入る前のシジミの写真らしい。
次に、先ほど濡れていたときの写真が表示される。
いつの間に撮ったのだろう。
うちの人間は二枚を交互に見て、笑った。
「別の猫みたい」
同じ猫である。
風呂へ入る前も。
濡れているときも。
乾いたあとも。
すべてシジミだ。
猫は毛が濡れたくらいで別の猫にならない。
人間は、外見が変わるとすぐ別のものに見えると言う。
だが、自分たちについては、
「見た目で判断しないで」
とも言う。
猫のことは毛の広がりだけで別の猫のようだと笑い、自分の中身は外見だけでは分からないと主張する。
ずいぶん自分たちに都合のよい決まりである。
うちの人間は、濡れたシジミの写真を大きく表示した。
「本当に細いなあ」
まだ言っている。
画像を見返すたびに、また初めから驚いている。
写真に残せば、来週は覚えているだろうか。
おそらく覚えていない。
来週も風呂へ入れる。
毛が濡れる。
うちの人間が目を丸くする。
そして、同じ言葉を言う。
「シジミ! ほっそ!」
シジミは前足の毛づくろいを終え、今度は胸元を舐め始めた。
毎週、同じ猫を洗う。
毎週、同じように毛が張りつく。
毎週、同じ大きさの体が現れる。
それでも毎回驚く。
変わっていない猫を見て、変わったと思う。
戻っていない猫を見て、戻ったと喜ぶ。
うちの人間はシジミの写真を眺めながら、楽しそうに笑っている。
来週も、同じ驚きを新しく味わうのだろう。
忘れることで、何度でも新鮮に楽しめる。
それは人間の長所なのかもしれない。
だが、シジミから見れば、単に何も覚えていないだけである。
シジミは毛づくろいを続けながら、猫語でつぶやいた。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。
※ネタバレ範囲にご注意ください。
https://www.simulationroom999.com/blog/humans-foolish-top




