(一)シジミ! ほっそ!
◆ 風呂の日
週に一回のお風呂の日である。
シジミは風呂が特に嫌いというわけではない。
好きかと聞かれれば、別に好きでもない。
体が濡れる。
足元が滑る。
普段とは違う匂いがつく。
そのあと長い時間、毛を乾かされる。
進んで入りたい場所ではないが、逃げ回るほど嫌な場所でもなかった。
うちの人間は、風呂の日になると朝から少し落ち着かなくなる。
何度もシジミを見る。
風呂場の扉を開ける。
布を用意する。
小さな容器を並べる。
そして、シジミと目が合うたびに、何でもないような顔をする。
隠しているつもりらしい。
人間は、猫が自分の行動しか見ていないと思っている。
だが、猫は匂いも聞いている。
風呂場から漂う湿った空気。
いつもとは違う場所へ置かれた大きな布。
棚から取り出された猫用の洗うもの。
朝から何度もこちらを確認する視線。
これだけそろえば、何をするつもりなのかは分かる。
それでも、うちの人間は明るい声で呼ぶ。
「シジミ、おいで」
妙に優しい。
食事のときよりも少し高い声である。
病院へ連れていくときにも、同じような声を出す。
人間は都合の悪いことを隠そうとすると、声だけ優しくなる。
普段どおりに呼んだほうが、まだ怪しまれない。
シジミは長椅子の上から、うちの人間を見た。
うちの人間は柔らかな部屋着の袖を肘までまくり、邪魔にならないよう栗色の髪を後ろでまとめていた。
風呂へ入れる気である。
間違いない。
「今日はお風呂の日だよ」
最初からそう言えばよい。
シジミは長椅子から降りた。
逃げても、いずれ捕まる。
寝台の下へ入れば、うちの人間は床へ這いつくばる。
棚の上へ逃げれば、椅子を持ってくる。
家の中を走り回れば、最後には二人とも疲れる。
そこまでしても、風呂がなくなるわけではない。
結果が変わらないなら、余計な体力を使う必要はない。
猫は合理的である。
うちの人間は、自分から近づいてきたシジミを見て、うれしそうに笑った。
「今日は素直だね」
今日も、である。
前回もそれほど逃げていない。
ただし、前々回は、うちの人間が何も説明せず抱き上げようとしたので避けただけだ。
急に体を持ち上げようとする者がいれば、距離を取るのは当然である。
それを人間は、風呂から逃げたと考えている。
自分の近づき方に問題があったとは思わないらしい。
うちの人間はシジミを抱き上げ、風呂場へ運んだ。
風呂場には、すでに浅く湯が張られていた。
熱すぎず、冷たすぎない。
そこは悪くない。
うちの人間も、毎回シジミの前足へ少し湯をかけ、温度を確かめている。
猫の返事は分からないくせに、顔色だけは熱心に見る。
◆ シジミ! ほっそ!
シジミは湯の中へ下ろされた。
足の裏が濡れる。
続いて、脚。
腹。
背中。
黒い毛が少しずつ水を含んでいく。
乾いているときには、毛と毛の間に空気が入っている。
その空気が毛を押し広げ、体を実際よりも大きく見せている。
水に濡れれば、毛は体へ張りつく。
広がっていた分がなくなる。
ただそれだけである。
シジミの骨が縮んだわけではない。
肉が急になくなったわけでもない。
腹がへこんだわけでもない。
元から、この大きさである。
うちの人間は手ですくった湯を、シジミの背中へかけた。
毛がさらに体へ張りつく。
首の周り。
胸。
脇腹。
いつもは丸く見える部分が、次第に細くなっていく。
正確には、細くなっているように見えるだけである。
シジミは何も変わっていない。
だが、うちの人間は毎回、このあたりから目を見開き始める。
「シジミ……」
来る。
シジミには分かった。
うちの人間は、濡れたシジミを両手で支えながら、驚いた声を上げた。
「シジミ! ほっそ!」
細くなったわけではない。
元からこのサイズだ。
先週も説明した。
その前の週にも説明した。
さらにその前にも、同じことがあった。
濡らす。
毛が張りつく。
うちの人間が驚く。
毎回、同じ順番である。
人間は一週間たつと、猫の体の大きさを忘れるのだろうか。
シジミはうちの人間を見上げた。
そして猫語で言った。
毛が寝ただけである。
体は変わっていない。
乾けば元へ戻る。
うちの人間は、シジミの脇腹を両手で包んだ。
「いつも、もっと丸いのに」
それは毛である。
シジミ自身ではない。
人間は、目に見えている一番外側までを、その者の大きさだと思っているらしい。
猫の毛が広がっていれば、そこまでが猫。
濡れて張りつけば、急に細くなった猫。
ずいぶん単純な見方である。
うちの人間だって、着る服によって大きさが違って見える。
厚い上着を着れば、肩や腕が大きく見える。
柔らかな部屋着なら、体の形があまり分からない。
髪を下ろしていれば、顔の周りが広く見える。
後ろでまとめれば、首元が細く見える。
だからといって、髪をまとめるたびに、
「ほっそ!」
と驚いたりはしない。
服を脱いだからといって、体が縮んだとも思わない。
自分については、外側のものと中身を区別できる。
猫になると、毛と体の区別がつかなくなる。
※第13話「細くなったわけではない」は全三回です。
続きます。
作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。
※ネタバレ範囲にご注意ください。
https://www.simulationroom999.com/blog/humans-foolish-top




