(三)明日も仕事
◆ 遊び疲れて帰ってくる
夜も遅くなったころ、ようやく玄関の外から足音が聞こえた。
シジミは耳を立てた。
朝より少し遅く、重たい足音である。
鍵が触れ合う音。
扉の向こうで、うちの人間が何かを探している。
一度、違う物を取り出す。
小さな容器が床へ落ちる。
拾い上げる音がする。
また鞄の中を探る。
毎日使っている鍵なのだから、同じ場所へ入れておけばよい。
人間は帰宅する最後の瞬間まで要領が悪い。
鍵が回り、扉が開いた。
うちの人間が入ってくる。
「ただいま」
朝よりも姿勢が悪い。
肩が下がっている。
足取りも重い。
まとめていた髪も少し崩れている。
昼間から遊び歩いていたはずなのに、ひどく疲れている。
遊び方を間違えているのではないだろうか。
猫は遊び疲れれば、その場で休む。
人間は疲れても遊びをやめず、夜になるまで続けるらしい。
シジミはうちの人間の足元へ近づいた。
まず匂いを確認する。
知らない人間の匂い。
外の空気。
食べ物。
紙。
金属。
少し甘い匂い。
さまざまなものが混ざっている。
ずいぶん多くの場所を歩き回ったようだ。
うちの人間は、シジミを見て笑った。
「迎えに来てくれたの?」
確認しに来たのである。
どこへ行っていたのか。
危険なものを持ち帰っていないか。
食べ物はあるか。
特に最後が重要だ。
うちの人間は鞄を床へ置いた。
そして、靴を脱ぐ前に大きく息を吐く。
「疲れたあ」
自分から出かけたのである。
誰も外へ行けとは言っていない。
朝、あれほど布団から出たくなさそうにしていた。
それでも家を出て、夜遅くまで戻らなかった。
帰ってくると疲れたと言う。
人間の行動には、始まりから終わりまで一貫性がない。
嫌なら行かなければよい。
行くなら楽しめばよい。
疲れたなら早く戻ればよい。
そのどれもせず、毎日同じことを繰り返す。
◆ 家で寝ていられて
うちの人間は靴を脱ぎ、部屋へ入った。
シジミもあとをついていく。
食事を忘れられては困る。
うちの人間は髪をまとめていたものを外し、長椅子へ倒れ込んだ。
髪が背もたれへ広がる。
「もう動けない」
動いてもらわなければ困る。
シジミの食事がまだである。
シジミはうちの人間の前へ座った。
顔を見る。
動かない。
短く鳴く。
うちの人間は目を閉じたまま答える。
「ちょっと待って」
昼間から外で遊び続け、家へ帰ると食事の用意さえできない。
自分の体力を考えずに遊ぶから、こうなる。
シジミはもう一度鳴いた。
うちの人間が、ゆっくりと片目を開ける。
「分かった、分かった」
本当に分かっているかは疑わしい。
それでも長椅子から起き上がり、台所へ向かった。
ようやく一日の最も重要な仕事を果たす気になったらしい。
皿へ食事が入る。
シジミは匂いを確かめ、口をつけた。
うちの人間は、近くの床へ座り込んでいる。
「シジミはいいなあ。毎日家で寝ていられて」
何を言っているのだろう。
シジミは家を守っていた。
外の音を確認した。
日の動きに合わせて部屋の状態を見た。
帰宅時刻の遅いうちの人間を待ち、無事に戻ったか確認した。
食事を忘れた人間へ、その仕事を思い出させた。
一日中、何もしていなかったわけではない。
それに、家で寝ていられることがよいと思うなら、うちの人間もそうすればよい。
安全な家がある。
柔らかな布団がある。
食べ物も水もある。
それなのに人間は、朝になると嫌そうな顔で起き、わざわざ家から出ていく。
昼間から遊び歩き、夜遅くになって疲れ果てて帰ってくる。
そして、家にいたシジミをうらやましがる。
最初から家にいれば、すべて解決する話である。
人間は、自分で家を出たことを忘れているのだろうか。
うちの人間は立ち上がり、自分の食事を用意し始めた。
外で長く遊んできたのに、まだ食べるらしい。
食事を終えれば、風呂という水を浴びる場所へ行く。
そのあと、顔に塗ったものを落とし、髪を乾かし、絵の動く箱を見る。
そして夜遅くまで起きている。
翌朝になれば、また鳴る箱を嫌そうに止める。
起きたくないと言いながら起きる。
出かけたくないと言いながら出かける。
疲れたと言いながら遅くまで帰らない。
眠いと言いながら夜更かしをする。
そうして毎日、同じことを繰り返す。
猫なら、一度嫌な目に遭えば避ける。
足場が滑れば、次からは慎重になる。
危険な道だと分かれば、別の道を使う。
食べられないものなら、二度と口へ入れない。
人間は学ぶことができると言う。
だが、毎朝同じ音を嫌がり、毎晩同じように疲れている。
少なくとも、うちの人間が学んでいるようには見えない。
◆ 明日も仕事
食事を終えたシジミは、長椅子へ飛び乗った。
うちの人間が座るはずの場所の真ん中で丸くなる。
昼間、家を空けていた者に場所を選ぶ権利はない。
この家を一日守っていたのはシジミである。
しばらくして、風呂から戻ったうちの人間が、濡れた髪を布で拭きながらやってきた。
シジミを見て、少し困った顔をする。
「そこ、座りたいんだけど」
先に座った者の場所である。
うちの人間は諦め、長椅子の端へ腰を下ろした。
髪を乾かすための大きな音が鳴り始める。
シジミは少しだけ耳を伏せた。
外で一日遊び歩いたあと、家へ帰ってからも人間は騒がしい。
ようやく音が止まる。
うちの人間はシジミの背中を撫でながら、ため息をついた。
「明日も仕事かあ。行きたくないなあ」
仕事というのは、昼間から外を遊び歩くことらしい。
行きたくないなら、行かなければよい。
だが、おそらく明日の朝も、うちの人間は鳴る箱を止め、嫌そうな顔で布団から出る。
髪を整える。
鏡を見る。
顔へいろいろ塗る。
重い鞄を持ち、安全な家から出ていく。
夜になれば疲れ果てて帰り、家にいたシジミをうらやましがる。
人間は、自分で選んだ行動に自分で困っている。
シジミは撫でてくる手を受け入れながら、ゆっくりと目を閉じた。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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