(二)ぶちゃ猫、かわいい
◆ ぶちゃ猫、かわいい
子供が大きく息を吸った。
そして、満面の笑みで叫んだ。
「ぶちゃ猫、かわいいー!」
周囲の空気が止まった。
大きな猫も動かなかった。
おそらく、何を言われたのか理解できていない。
いや、人間の言葉そのものは分からなくても、声の調子から好意を向けられていることくらいは分かったはずだ。
問題は、その好意があまりにも強すぎたことである。
子供は両手を伸ばした。
大きな猫は、まだ動かなかった。
これまで自分へ近づいてきた者は、途中で立ち止まった。
視線をそらした。
道を譲った。
だから、この子供も、どこかで止まると思っていたのかもしれない。
だが、子供は止まらなかった。
両手が、大きな猫の顔へ届く。
険しい顔を左右から挟む。
そして、そのまま頬を押した。
大きな猫の顔が、さらに横へ広がった。
「ぶちゃ猫ー!」
子供は楽しそうに笑う。
「お顔、まるーい!」
大きな猫は固まっていた。
耳だけが、わずかに後ろへ動いている。
何が起きているのか理解できないらしい。
この辺りの猫は、誰も自分へ触れようとしない。
近づくことすらない。
その自分の顔を、人間の子供が両手で挟んでいる。
しかも、逃げる様子はまるでない。
恐れてもいない。
警戒もしていない。
ただ、うれしそうに頬を揉んでいる。
「やわらかーい!」
子供が大きな猫の頬を右へ押す。
次に左へ押す。
猫の顔が、人間の手に合わせて動く。
あれほど動きに迷いのなかった猫が、されるがままになっている。
道の真ん中を堂々と歩いていた前足も、いまは地面へ固く置かれたまま動かない。
尻尾だけが、ゆっくりと左右へ揺れている。
怒っているのか。
困っているのか。
逃げるべきか考えているのか。
おそらく、全部である。
◆ 助けを求める目
大きな猫がシジミのほうを見た。
初めて目が合った。
普段なら、あの猫と目を合わせれば挑戦と受け取られるかもしれない。
だが、今の視線に威圧する気配はなかった。
助けを求めている。
間違いなく、そういう目だった。
シジミは少し迷った。
助けるべきだろうか。
しかし、子供は猫を傷つけようとしているわけではない。
悪意もない。
むしろ、あふれるほどの好意を向けている。
ただ、その好意の示し方が猫には少し重いだけである。
大きな猫なら、自分で逃げようと思えば逃げられるはずだ。
子供の手を振り払い、横へ飛べばよい。
それをしないのは、逃げることが自分の誇りに反するのかもしれない。
この辺りで最も強い猫が、子供から逃げる。
そんな姿を、ほかの猫へ見られたくないのだろう。
だが、その迷いこそが状況を悪化させた。
子供は、猫が逃げないことを喜んだ。
「この子、抱っこできる!」
両手を頬から脇へ移す。
そして、大きな猫の体を持ち上げようとした。
猫の前足が地面から離れる。
後ろ足も続く。
大きな体が、少しずつ宙へ浮いた。
「重いー!」
重いなら下ろせばよい。
だが、子供は諦めなかった。
力を入れ直し、大きな猫を胸へ抱え込む。
猫の太い胴が、子供の腕の間に収まった。
前足が空中へ突き出される。
後ろ足も地面へ届かない。
あの猫が、完全に持ち上げられていた。
周囲の猫たちは、誰も動かなかった。
道を譲っていた猫も。
目を合わせなかった猫も。
さきほど逃げた若い猫も。
全員が、塀や物陰から様子を見ている。
助けようとする猫はいない。
恐れているからではない。
おそらく、どう助ければよいか分からないのだ。
相手が猫なら、うなり声を上げる。
間へ入る。
気をそらす。
だが、相手は人間の子供である。
しかも、笑いながら抱きしめている。
攻撃されているようには見えない。
それでも、大きな猫の顔は明らかに困っていた。
子供が猫の顔へ自分の頬を寄せた。
「ぶちゃ猫、かわいいー!」
猫の顔がさらに押しつぶされる。
「お顔ぺちゃんこー!」
もともと低かった鼻が、子供の頬へ埋まる。
険しかった目が、少し細くなる。
頬の肉が左右へ広がる。
この辺りの猫たちが恐れていた顔は、子供の腕の中で完全に形を変えていた。
大きな猫は、再び周囲を見回した。
助けを求めている。
だが、誰も動かない。
目が合いそうになると、ほかの猫たちは一斉に顔をそらす。
普段なら、目を合わせないことは服従の印である。
だが、今は違う。
見てはいけないものを見なかったことにしようとしている。
明日になれば、誰も今日のことを口にしないだろう。
あの猫が道を歩けば、また静かに道を譲る。
誰も子供に抱かれていたことを言わない。
頬を揉まれていたことも。
お顔ぺちゃんこと呼ばれていたことも。
それが猫同士の礼儀である。
少なくとも、シジミはそう思うことにした。
◆ 見なかったことにする
やがて、後ろから追いついた大人が子供の肩へ手を置いた。
「勝手に猫ちゃんを抱っこしたら駄目でしょ」
子供は不満そうな顔をする。
「だって、かわいいもん」
「嫌がってるかもしれないよ」
ようやく分かる人間が来たらしい。
子供は大きな猫を地面へ下ろした。
四本の足が道へつく。
猫はすぐには動かなかった。
体勢を整える。
乱れた毛を一度震わせる。
それから、何事もなかったように顔を上げた。
子供がもう一度手を伸ばす。
「ぶちゃ猫、またね!」
大きな猫は飛び退いた。
さきほどまでの堂々とした歩き方はどこにもない。
道の端へ走り、塀の上へ跳び、振り返ることなく向こう側へ消えた。
子供は手を振っている。
「かわいかったー!」
大人も笑った。
「すごく貫禄のある猫だったね」
貫禄。
人間には、まだそう見えているらしい。
先ほどまで頬を揉まれ、抱き上げられ、助けを求めて周囲を見ていた猫である。
人間は、自分の見たいものだけを見る。
子供には、顔のつぶれたかわいい猫。
大人には、貫禄のある大きな猫。
周囲の猫たちには、逆らってはいけない強者。
同じ猫を見ているのに、全員が違うものを見ている。
そして誰も、自分の見方が間違っているとは思っていない。
◆ 一番かわいい猫
しばらくすると、物陰に隠れていた猫たちが少しずつ出てきた。
若い猫も、さきほどの葉のところへ戻る。
だが、もう葉では遊ばない。
大きな猫が消えた塀の向こうを見ている。
何を考えているのかは分からない。
あの猫も人間には勝てないと思ったのかもしれない。
あるいは、自分も抱かれたらどうしようと心配しているのかもしれない。
シジミは塀の上で座り直した。
あの猫は、明日も道の真ん中を歩くだろうか。
おそらく歩く。
今日のことなどなかったように、胸を張るだろう。
ほかの猫たちも、これまでどおり道を譲るはずだ。
ただし、人間の子供の足音が聞こえたときだけは、少し早く道を変えるかもしれない。
それを臆病とは呼ばない。
学習である。
猫の世界では誰も逆らわない者でも、人間から見れば、ただの顔が少し変わった猫である。
険しい顔も、太い体も、堂々とした歩き方も、人間の子供には通じない。
強さを表していたすべての特徴が、子供の目にはかわいさとして映る。
ほかの猫たちが恐れて目をそらす顔を、子供は両手で挟む。
誰も近づけない猫を、ためらいもなく抱き上げる。
そして、猫たちの頂点に立つ者へ向かって、ぶちゃ猫と呼ぶ。
シジミは子供の背中を見送った。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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