(二)ちゃんと書いてある
◆ 世界の形を組み立てる
人間は、何もないと思っているときには見落とす。
何かあると知った途端、今度はすべてに意味を探す。
ちょうどよい観察が難しいらしい。
シジミは、うちの人間の指が何度も前の文章へ戻るのを見ていた。
先輩の小説は、読み進めるだけでは足りないようだった。
あとで分かったことを持って、前へ戻る。
すると、最初とは違って見える。
先輩が言っていた、
世界を先に作り、登場人物を経て読者に見てもらう。
という意味が、うちの人間にも少し分かってきたらしい。
先輩は世界のすべてを説明しない。
登場人物が見たものだけを出す。
その人物にとって普通なら、普通のこととして扱う。
読者は、いくつもの場面をつなぎ合わせて、世界の形を考える。
シジミには、少し面倒な方法に思えた。
最初から説明すれば早い。
だが、人間は自分で気づくことを好む。
答えだけを渡されるより、途中で、
そういうことだったのか。
と思うほうが気持ちよいらしい。
◆ 一つの規則から生まれる
うちの人間は、さらに先まで読んだ。
世界のある規則が明らかになる。
最初に見たときには不思議だった習慣。
登場人物たちが当然のように避けていたもの。
人間の常識なら、むしろ積極的に行いそうなこと。
それらが、すべて一つの規則から生まれている。
うちの人間は画面を見たまま言った。
「この設定だと、そうなるのか」
少しして、さらに声を上げる。
「普通と真逆の状態になっちゃう」
先輩は、ただ珍しい規則を一つ置いたわけではないらしい。
その規則がある。
ならば、暮らしが変わる。
価値の高いものが変わる。
危険だと思われる行動も変わる。
人間同士の関係も変わる。
こちらの世界では正しいことが、向こうでは危険になる。
こちらでは避けられることが、向こうでは望まれる。
世界の規則を一つ変えるだけで、その先にある多くのものが反対になる。
うちの人間は、自分の小説で主人公に転移能力を与えた。
便利だからである。
遅刻しない。
買い物が楽になる。
敵の攻撃も避けられる。
だが、その力が当たり前に存在する世界なら、町はどうなるのか。
扉は必要なのか。
道は使われるのか。
荷物はどう運ぶのか。
国境は何で守るのか。
犯罪をどう防ぐのか。
そこまでは考えていなかった。
主人公だけが使えるから、考えなくても話を進められると思っていた。
先輩は、一つの仕組みを決めたあと、その影響がどこまで広がるかを考えている。
◆ ちゃんと書いてある
うちの人間は感心しながらも、少し疲れた顔をした。
「これ、書く前にどこまで考えてるんだろう」
本人に聞けばよい。
だが、今は読むほうが先らしい。
話の中では、以前の場面で出てきた人物が再び現れた。
ずいぶん前に少しだけ登場した者である。
うちの人間は、その名前を覚えていなかった。
指を止める。
「誰だっけ」
検索する。
前の話へ戻る。
ようやく見つける。
「ああ、この人か」
その人物が以前言った短い言葉が、今の出来事へつながっている。
うちの人間は画面を見つめた。
「そこから続いてたの?」
先輩の伏線は、すぐには戻ってこないらしい。
同じ話の中で回収されるものもある。
かなり離れた先で意味が分かるものもある。
日常の中へ混ざっているため、最初に読んだときには気づきにくい。
うちの人間は、また前へ戻った。
「こんなの覚えてないよ」
だが、前の文章には確かに書かれている。
隠されていたわけではない。
読んだ。
ただし、重要だとは思わなかった。
人間の記憶は、自分が重要だと思ったものを残す。
そのとき意味が分からなければ、簡単に流す。
あとで必要になってから、
聞いていない。
書いていなかった。
と言う。
だが、実際には聞いていた。
書かれていた。
自分が覚えていなかっただけである。
うちの人間は、少し悔しそうに笑った。
「ちゃんと書いてある」
先輩の小説を疑っていたらしい。
急に出てきた設定ではないか。
あとから加えたのではないか。
そう思って戻った。
だが、最初から置いてあった。
うちの人間は、読む速さをさらに落とした。
※第34話「先輩の小説」は全四回です。
続きます。
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