(四)今日はここまで
◆ 最強なのに、全然格好よくない
「こっちのほうが、少し書きやすいかも」
ようやく、自分の知っていることを入れたらしい。
人間は、自分にしか分からない大きな秘密を持っているとは限らない。
だが、自分がどこで面倒だと思うか。
何を楽にしたいか。
どのような失敗をするか。
そこには、その人間の違いが出る。
うちの人間は、主人公に転移能力を使わせた。
朝、寝過ごす。
急いで服を着る。
転移する。
だが、鞄を忘れる。
家へ戻る。
今度は鍵を忘れる。
また戻る。
何度も行き来する。
力は最強に近い。
使う者は、うちの人間に似て少し抜けている。
うちの人間は書きながら笑った。
「最強なのに、全然格好よくない」
それでも、先ほどまでの話よりは、その人間らしい。
どこかで見た形を使っている。
異世界。
特別な力。
強い主人公。
だが、その力を何に使うかが少し違う。
うちの人間が普段考えていることが入った。
そこで初めて、別の何かが見え始めた。
好きだから、すぐ書けるわけではない。
だが、好きであることが無駄なわけでもない。
何度も読んだ。
どこが好きかを知っている。
何が違うと感じるかも、少しは分かっている。
それを、自分が知っていることと結びつける。
そこまでして、ようやく形の中へ中身が入る。
◆ 小説家になれるかも
うちの人間は、しばらく書き続けた。
先ほどより長く指が止まらなかった。
シジミは長椅子の上で目を細めた。
少しは進んだらしい。
やがて、うちの人間が手を止めた。
最初から読み返す。
何度か小さくうなずく。
そして言った。
「これ、結構面白いかも」
自分で書いたものなので、自分の好みに合うのは当然である。
それでも、先ほどのような困った顔ではない。
うちの人間はシジミを見た。
「シジミ、私、小説家になれるかも」
一つの話を最後まで書いてから言ったほうがよい。
まだ主人公が朝に何度か転移しただけである。
世界も救っていない。
敵も出ていない。
話が終わる場所も決まっていない。
それでも、人間は少し書けると、すぐ先の成功を考える。
白い画面を見つめていたときには、
「私には無理かも」
と言う。
数行うまく書ければ、
「小説家になれるかも」
と言う。
中間がない。
◆ このあと、どうしよう
うちの人間は、もう少し書いた。
主人公が転移能力を使い、遠くの町で評判の菓子を買う。
家へ戻る。
食べる。
満足する。
次に何をさせるか考える。
指が止まる。
「……このあと、どうしよう」
また止まった。
話を始めることと、続けること。
続けることと、終わらせること。
それぞれ別の難しさがあるらしい。
うちの人間は少し考えたあと、絵の光る板で別の小説を開いた。
「ちょっと参考にしよう」
再び読む側へ戻った。
少しだけ読むつもりだったのだろう。
一つの話を読む。
次も読む。
その次も読む。
自分で書いていた画面は、後ろへ隠れた。
うちの人間は、しばらくして楽しそうに笑った。
もう自分の小説のことを忘れかけている。
書くのは難しい。
読むのは楽である。
すでに誰かが考えた世界。
誰かが決めた主人公。
誰かが選んだ出来事。
それを追えばよい。
自分で何もないところから決める必要はない。
好きだから読める。
だが、好きだから書けるとは限らない。
そして、書く難しさを知ったからといって、読むのをやめる必要もない。
◆ 今日はここまで
ただ、うちの人間は数行書いただけで、
「小説家になれるかも」
と言った。
その直後には、続きを考えるのをやめて、他人の小説を読んでいる。
何かを作る者になりたい。
だが、作る苦労はなるべく避けたい。
完成したものは欲しい。
途中の迷いは少ないほうがよい。
人間は結果へ憧れ、そこへ至る時間を軽く考える。
うちの人間は、読み終えたあとで、ようやく自分の画面へ戻った。
主人公は、まだ菓子を食べたところで止まっている。
うちの人間は少し考えた。
そして、文章の最後に一行加えた。
『こうして、彼の異世界生活は始まった。』
始まったところで終わらせた。
うちの人間は満足そうにうなずいた。
「今日はここまで」
続きが決まらないことを、きれいに区切ったように言い換えた。
人間は、できなかったことにも名前をつける。
中断ではない。
今日はここまで。
思いつかなかったのではない。
考える時間を置く。
飽きたのではない。
気分転換。
言葉を変えると、少し立派に見える。
うちの人間は椅子から立ち上がった。
大きく伸びをする。
「小説を書くって、難しいね」
ようやく正しく分かったらしい。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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