第8話 宿屋へ
路地裏の湿った壁に刻まれた、正三角形と円の幾何学模様。俺はその不気味な紋章をしばらく睨みつけ、脳内の『エデクロ設定資料集』を探ったが、ゲーム本編のどのデータにも、これに該当する意匠は存在しなかった。
やはりこれは、ゲームの枠組みを超えた「運営の防衛システム」独自のコード、あるいは俺たちとは異なる目的で動かされている未知のプログラムの痕跡だ。
「……シード、これ以上この街を探しても、奴らの本体の手がかりは出そうにないな」
シルヴィが周囲の気配を隠密スキルで探りながら、静かに告げた。
その言葉の通り、俺たちは認識阻害の魔法を維持したまま、グランバレーの主要な路地やギルド周辺を数時間にわたって探しに探したが、刻印以上の収穫は得られなかった。
敵は確実に潜伏している。それも、この活気ある始まりの街のどこかに、完全に気配を殺して。
「ああ。これ以上の深追いは無駄だ。夜も更けてきた。一度、街の宿に腰を落ち着けて情報を整理する」
俺の提案に、皆が頷いた。
向かったのは、街の喧騒から少し離れた路地にある、冒険者御用達の宿屋『黄金の麦穂亭』。
幸い、ジークから強奪した財布の中には、初期プレイヤーとしては破格の金貨が詰まっていたため、宿泊費に困ることはなかった。
「いらっしゃい。……おや、大柄な旦那に、連れはエルフの美しいお嬢さんと、それから……おやおや、珍しい、立派な獣人のお姉さんかい。これはまた異色なパーティーだね」
恰幅のいい人間の女将が、俺たちの姿を見て目を丸くした。アルテア長から貰った認識阻害のスクロールの効果は完璧だ。女将の目には、俺が「筋肉質の屈強な人間の大剣士」に見えている。
「一番広い続き部屋を二部屋、二日分頼む。あと、食事は部屋まで運んでくれ」
「はいよ! まいどあり!」
金貨を数枚投げ渡すと、女将は満面の笑みで部屋の鍵を渡してくれた。
「ふぅ……! 人間の街って、なんだか独特の匂いがして落ち着かないね。でも、この部屋はふかふかのベッドがあって最高!」
部屋に入るなり、エルーナが背負っていた小さな荷物を放り出し、大きなベッドへとダイブした。長い耳を嬉しそうにパタパタと揺らしている。
「おい、エルーナ。シード様の前でそのようなはしたない姿を見せるな」
シルヴィが呆れたようにため息をつきながら、部屋の窓のカーテンを少しだけ開け、外の通りに視線を走らせた。
彼は宿に入ってなお、護衛としての警戒を一切解いていない。さすがはエルフ一の戦士だ。
「いいではないか、シルヴィ。緊迫した森を抜けてきたのだ、羽を伸ばすくらい許してやれ」
ハーミルはそう言うと、俺が椅子に腰掛けるのとほぼ同時に、当然のような顔をして俺の膝の上にドサリと腰を下ろした。
「……おい、ハーミル。何をしている」
「何って、決まっているだろう。婿の温もりを堪能しているのだ。人間の姿になっても、お前の肉体は引き締まっていて実に心地よいな」
ハーミルは黄金の獅子耳を俺の胸元にこすりつけ、立派な尻尾を機嫌良さそうに俺の足に絡ませてくる。
肉食獣の甘い匂いが、至近距離から容赦なく漂ってきた。俺の肉体にとって、これはなかなかの精神攻撃だ。
「ちょっと! ハーミルさん、シード様から離れてください!」
ベッドから飛び起きたエルーナが、顔を真っ赤にして割り込んできた。
「シード様はみんなのリーダーなんです! あなた一人のものじゃありません!」
「ふん、何を言うか。私は最初から『私のモノになれ』と言ったはずだ。お前のような発育途中のエルフの小娘に、このシードの隣はまだ荷が重いのではないか?」
「な、なんですってぇー!? 私だって、精霊術なら負けません! シード様、私だって、シード様のお役に立てるんですから!」
エルーナが俺の右腕をぎゅっと抱きしめ、ハーミルが左腕をさらに強く引き寄せる。
左右から美少女たちの柔らかい感触と熱が伝わってくるという、前世のチェリーボーイなネトゲ廃人の俺なら狂喜乱舞するシチュエーション。
しかし、今の俺――シードの心境は、それどころではなかった。
「お前たち、……少し静かにしろ」
ドスの効いた低い声。俺から放たれた微かな【威圧】のオーラに、ハーミルとエルーナがハッとして動きを止めた。
「シ、シード……? 怒ったのか?」
ハーミルが少し不安そうに耳を寝かせる。
「いや、怒ってはない。ただ……今は少し、考え事をさせてくれ」
俺が真剣な目で窓の外の闇を見つめると、二人は察したようにそっと俺から離れた。
シルヴィもまた、静かに俺の横へと歩み寄る。
「シード様、やはり……昼間の『刻印』が気に病みますか」
「ああ。それだけじゃない。この街の空気そのものが、歪み始めている」
◇◆◇
俺は椅子から立ち上がり、窓辺へと歩み寄ってカーテンの隙間からグランバレーの夜景を見下ろした。
夜の帳が下りた街は、一見すると平和そのものだ。明かりの灯る宿屋や酒場からは、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
だが、俺の【魔力操作】と【混沌魔法】のパッシブ感覚は、この世界の大気を流れるマナの循環が、明らかに「不自然に滞っている」のを感じ取っていた。
エデクロにおいて、世界のオブジェクトやマナの配置は、すべて運営のサーバーによって厳密に管理されていた。
もしゲーム内で大きなデータエラーや、システムが想定していないバグ(例えば、俺が勇者ジークをハメ殺したような事象)が発生した場合、サーバーは一時的にそのエリアの処理を重くする。
前世の言葉で言えば、「ラグ(遅延)」だ。
今、このグランバレーの周辺には、目に見えない強烈な「世界のラグ」が発生している。
(一万人の転生プレイヤー。そして、勇者のロスト……。運営にとっては、もうパッチで直せるレベルのバグじゃない。世界そのものを一回『強制終了』して、再起動をかける前触れだ)
もし運営がこの世界をリセットすれば、この世界で生きているエルフの郷の面々も、ハーミルの部族も、そして転生してきた一万人のプレイヤーたちの魂も、すべて「データ」として一括消去される。
「ふざけるな……。そんなこと、絶対に許してたまるか」
俺の拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。前世、俺たちの十年間を都合よくリセットし、思い出を踏みにじったあの糞運営。
その悪夢が、今まさに、このリアルな現実となった世界で再び行われようとしている。
「シード様……」
エルーナが、俺の背中に漂う圧倒的な『怒り』と『焦燥』を敏感に感じ取り、心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫だ、エルーナ。……シルヴィ、ハーミル。一週間の修行期間が終わったら、俺たちは本格的に動く。アランの死霊術を実戦レベルまで引き上げ、レオパルド部族の軍勢と合流する。あの刻印を刻んだ奴らが、この森を、そしてこの世界を壊しに来る前に……俺たちが先手を打って、その首を狩る」
「ハッ! どこまでもお供いたします!」
シルヴィが力強く拳を胸に当てた。
「ふふ、やはりお前は最高の男だ、シード。私の部族の戦士たちも、お前の号令なら喜んで命を捨てるだろうよ」
ハーミルが不敵に笑い、鋭い爪を光らせた。
「私も、精霊さんたちにお願いして、全力でシード様を守ります!」
エルーナもその小さな拳を握りしめる。
仲間の存在が、俺の荒みかけた心を少しだけ落ち着かせてくれた。
味方は揃いつつある。エルフの知恵、獣人の武力、そして同胞の死霊術。
だが、これでもまだ足りない。運営を相手にするには、もっと圧倒的な、世界を震撼させるほどの戦力が必要だ。
(待っていろ、糞運営。お前たちが作ったこの世界を、すべて俺たちの力で、変えてやる。その喉元に聖剣を突き立ててやる)
静まり返るグランバレーの夜。
一端のゴブリンから始まった名もなき怪物の復讐の焔は、静かに、しかし確実に、世界を焼き尽くすほどの大火へと変わり始めていた。




