第2話 伝説の幕開け。
三日目の朝。
洞窟の入り口を塞いでいた、目に見えない青い結界の光が、蛍の群れように儚く霧散していくのが見えた。
「――始まった」
世界が起動したのだ。
遠くから、鳥の羽ばたきと共に、大気が震えるような奇妙な駆動音が聞こえる。
おそらく、何千、何万という「プレイヤー」たちが、この世界に同時にログイン――いや、転生してきたのだ。
俺のように、見知らぬ種族や、望まぬ姿に変えられた大勢の人間たちが、今頃世界中で大混乱に陥っているはずだ。
だが、俺の目の前に現れるのは、その中でも『勇者』のポジションを掴み取った男。
前世、最悪のプレイヤーキラー(PK)として名を馳せ、「力こそ正義」を地で行く狂戦士――コードネーム『ジーク』。
きっとエデクロの初期段階において、この試練の洞窟に一番乗りする「勇者」は彼だ。
彼は前世のプレイスキルをそのままに、初心者用NPCを蹂躙しながら、この洞窟のゴブリンA(俺)を殺して最初の固有武器を手に入れるシナリオになっている。
ドシン、ドシン、と重い足音が洞窟内に響き渡る。他のNPCゴブリンたちが、本能的な恐怖からか、キィキィと怯え始めた。
「ハハハ! すげえ、すげえよこの臨場感! 本当にゲームの中に入っちまった!」
傲慢で、聞き覚えのある若い男の声。
洞窟の入り口から入ってきたのは、まばゆい銀髪に、初期装備とは思えないほど洗練された美しい片手剣を握った人間の少年だった。
背後には、彼を導くガイド妖精(NPC)が浮いている。
(間違いない。元トップPKのジーク……。いや、今は『勇者ジーク』か)
彼のステータスを【夜視】とゲーム知識で透視する。レベルはまだ3程度のはずだが、手にあるのは光の女神から授かった【輝きの聖剣】。
攻撃力は軽く50を超える。かすっただけで俺は即死だ。
「よーし、まずは小汚いゴブリンどもから血祭りにあげてやる。俺の伝説の、最初の踏み台になれ!」
ジークが獰猛に笑い、突進してくる。
最初の犠牲になったのは、俺の隣にいたNPCのゴブリンBだった。
閃光が一閃。ゴブリンBは悲鳴を上げることすら許されず、一撃で両断され、光のチリへと変わる。
「おおー! 最高の打鍵感……いや、手応えだ!」
一歩、また一歩と、ジークが俺の方へ歩みを進めてくる。彼の目が、ターゲットをロックオンするように俺を捉えた。
「次はお前だ、ゴブリン!」
死のカウントダウン。
しかし、俺の心は驚くほど冷静だった。
俺は持っていた「古巨人の大腿骨」をその場に放り投げ、両手を挙げて、ゆっくりと後退した。
「……あ? なんだあ? モブのくせに命乞いか?」
ジークが不審げに眉をひそめる。
ゲームのNPCゴブリンなら、狂ったように突撃してくるか、その場で怯えモーションを取るだけだ。しかし、俺の動きは明らかに「意志」を持ったプレイヤーのそれだった。
だが、ジークはそれを単なる「進化したモブの演出」だと解釈したらしい。
「無駄だよ。お前を殺さなきゃ、俺のチュートリアルクエストが進まねえんだわ!」
ジークが地を蹴り、聖剣を上段に構える。
俺が下がった先は、洞窟の最奥――『始まりの泉』と呼ばれる、底の見えない地下水脈へと繋がる深い奈落の縁だった。
ゲーム内では、ここは透明なコリジョン(進入不可の壁)で遮られており、プレイヤーもモンスターも落ちることはない。
「ただの背景の崖」のはずだった。
だが、ここはもうゲームの世界じゃない。生きた現実の世界だ。そして、エデクロの初期バージョンには、ある致命的な『仕様の穴』が存在していた。
「死ねぇ!」
ジークの聖剣が、凄まじい風切り音を立てて俺の脳天へと振り下ろされる。
俺は一歩も動かない。
剣先が俺の鼻先を掠める、そのコンマ一秒の瞬間――。
俺は、スキル【不意打ち】を発動。
「ジークの足元にある、ごく普通の小石」を、思い切り蹴り飛ばした。
カツン、と小さな音が響く。
エデクロの物理エンジンは、特定の「モーション中の攻撃」と「予期せぬオブジェクトの衝突」が重なった時、位置判定がわずかにズレるという、有名なバグ(通称:位置ズレバグ)があった。
ガキィィィン!
ジークの放った渾身の一撃は、俺の頭を捉える直前、不可視のシステムエラーによって、右側の岩肌へと深く突き刺さった。
「なっ……!? 剣が抜けない!?」
「ガアアア!」
俺はゴブリンの醜い顔に、邪悪な笑みを浮かべた。ジークが体勢を崩し、必死に剣を引き抜こうと背中を向けたその瞬間、俺は全力で彼の腰のあたりにタックルをかました。
今の俺の全力の一撃。
ダメージはほぼゼロだ。だが、目的はダメージではなくノックバック(押し出し)にある。
「うおっ!? 何する、離れ――」
ジークの足が、崖の縁を踏み外す。
彼が拠って立つ『勇者』のシステムは、この崖を「進入不可の安全地帯」と認識していた。
だからこそ、落下への警戒が完全にゼロだった。しかし、外力によって強制的に押し出された場合、その判定は上書きされる。
「あ……。おい、ここ、崖――」
ジークの顔が、初めて恐怖に染まった。
彼の手から聖剣が離れ、彼の体が、底なしの暗黒の穴へと真っ逆さまに落ちていく。
「しまっ――バグか!? バグなのかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
洞窟の底へと消えていく、勇者の絶叫。
数秒の後、深い闇の底から「ドシャリ」という、肉塊が潰れるような嫌な音が響き、続いて、莫大な光の粒子が、オーロラのように穴の底から噴き上げてきた。
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チュートリアルボス:勇者の討伐を確認しました。
世界の因果が歪みました。
『死亡イベント:チュートリアルでの死』を完全に回避しました。
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暗転する視界。
脳内に響き渡る、システムアナウンスの音。
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想定外の経験値を獲得しました。
レベルが 1 ───> 18 に上昇しました。
固有スキル【強奪(Lv1)】を獲得しました。
アイテム【輝きの聖剣】を獲得しました。
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激しい光が俺の体を包み込む。
バキバキと骨が組み替わり、俺の体躯はさらに巨大に、筋骨隆々とした「ゴブリンエリート」のそれへと進化を始めていた。
「ハハ……。ハハハハハ!」
俺は穴の底を見下ろし、狂ったように笑った。やった。へし折ってやったぞ。
生存率0%であったはずの、最初の三日で死ぬはずだった「ゴブリンA」の運命を、俺は自らの知恵と、この世界のバグを利用して完全に破壊したんだ。
手元には、本来なら数ヶ月後の勇者シナリオでしか手に入らないはずの、本物の【輝きの聖剣】が転がっている。
だが、喜びも束の間。
洞窟の天井が、激しく鳴動し始めた。
赤い光が点滅し脳内に警告音が鳴り響く。
『警告:エリア001において、重要シナリオNPC(勇者)のロストを確認。世界の修正プログラムが起動します。』
(ちっ……! さすがは糞運営、仕事が早いじゃねえか!)
運営は、この世界のシナリオが狂うことを許さない。狂ったらどうするか?
彼らはいつだって、世界を「リセット」してきた。
(だが、もう遅い。俺は生き延びた。ここからは、俺がお前たちのシナリオを徹底的にぶち壊す番だ)
俺は聖剣を拾い上げ、崩落を始めた試練の洞窟から、外の世界へと力強く一歩を踏み出した。
眩しい太陽の光。目の前に広がるのは、かつて愛し、そして運営に壊された『エデン・クロニクル』の、どこまでも美しい緑の大地。
最弱の魔物ゴブリンA。
その名もなき怪物が、世界を、そして「神」を名乗る運営を揺るがす絶対の英雄へと成り上がる復讐劇が、今、ここに開幕した。




