第13話 ハイエルフの郷
「待て、シード殿。……行くのはあなた一人ではないはずだ」
エルフの郷の出口へと向かう俺の背中に、鋭く、しかし温かみを帯びた声がかけられた。
振り返ると、そこにはいつもの緑の軽鎧を纏い、愛用の長弓を背負ったシルヴィが立っていた。
彼の身体にも、あの二重人格の怪物リル・ムルとの激闘で負った傷の包帯が痛々しく巻き付いている。だが、その翡翠の瞳には一点の曇りも、揺らぎもなかった。
「シルヴィ……お前、その身体で動くつもりか。エルフの郷の守りはどうする」
「郷の防衛なら、ハーミル殿が残ってくださる。それに、我が主たるあなたが満身創痍で修羅の道へ進もうとしているのに、一歩後ろを歩むことすらできぬなら、私はエルフの戦士を辞める」
シルヴィの言葉に応じるように、洞窟の影からカタカタと頼りない、しかしどこか決意に満ちた骨の音が響いた。
「そうですよ、シードさん。俺だって置いていかれたら困りますって」
漆黒の魔導ローブのフードを深く被ったリッチ、アランだった。ドクロの杖を握る骨の手は、まだかすかに震えている。
前世はただのエンジョイ勢プレイヤーだった男だ。あのリル・ムルの圧倒的な暴力を目の当たりにして、恐怖がないはずがない。
「アラン、お前まで……。相手は運営の手先だぞ。次こそは消し飛ばされるかもしれないんだぞ」
「そんなの、最初から分かってますよ。でもね……シードさんに貰ったあのハニーバターブレッドの味、俺、まだ忘れてないんです。こんな身体になっちまった俺を、ちゃんと『人間』として扱ってくれたのはあんただけだ。ここで日和ったら、俺は前世のクソみたいな現実からも、この世界からも、一生逃げ続けることになる」
アランの眼窩の奥で、青い鬼火がゴォッと力強く燃え上がった。かつては自分の保身ばかり考えていた「骨」が、今、明確な意志を持って俺の隣に立とうとしている。
俺はフッと、口元を歪めて笑った。
「……ハッ、どいつもこいつも、お人好しのバカばっかりだな」
「ふん、お前がそのバカどもの頭領なのだから、諦めることだな」
見送りの位置に立つハーミルが、腕を組んで不敵に笑った。彼女はライオンの尻尾を小さく揺らしながら、俺の横で眠り続けるエルーナの部屋の方向を見やった。
「エルーナは魔力を使い果たしてまだ眠っている。それに、この郷の防衛結界も傷ついている。シード、お前が安心して『強さ』を貪り食ってこられるよう、この場所は私が命に代えても守ってやる。我がレオパルド部族のプライドにかけてな」
「頼む、ハーミル。エルーナを……みんなを任せた」
「ああ。私の最高の婿よ。……行ってこい」
ハーミルに見送られ、俺、シルヴィ、アランの三人(と二十匹の隠密アンデッド)は、始まりの森の境界線へと向かって歩き出した。
◇◆◇
「待たれよ、シード殿、そして若き戦士たちよ」
郷の最外周の結界を抜ける直前、翡翠の杖を突いた老長アルテアが、風に乗るように俺たちの前に現れた。
「長、まだ何かあるのか? マールスの居場所なら、北西の果てだと聞いたが」
「うむ。伝説の魔法使いマールスの庵へ向かうのは良いが、今の貴殿らのボロボロの装備と、傷ついた魔力回路では、道中の高位魔物にすら遅れをとりかねん。そこでじゃ……北西へ向かう道すがら、我が郷の隣国にあたる、ハイエルフの隠れ郷『リーズヘルテ』に立ち寄るが良い」
「リーズヘルテ……」
俺の脳内にある『エデクロ設定資料集』のページが、パッと更新された。
始まりの森に住むアルテアたちの郷は、いわば一般的なエルフの集落だ。だが『リーズヘルテ』は違う。
純血の上位種――ハイエルフたちが統治する、独自の古代魔導技術と、最高峰の武具鍛造技術を現代に残す、中盤エリアの隠された聖域だ。
「リーズヘルテの長は、私の古き友人じゃ。この手紙を持っていけば、貴殿らの傷を癒やす上位治療の秘薬と、そのボロボロの武器に代わる、ハイエルフの加護を受けし武具を融通してくれるはず。何より、あの二重人格の怪物の情報を持っているかもしれん」
アルテア長から手渡されたのは、美しい銀色の魔力糸で封印された一通の手紙。
「感謝する、長。無駄にはしない」
「うむ。世界を弄ぶ不届き者どもに、エルフの因果の底力、見せてやるが良い。道中、気をつけてな」
それから俺たちは、人間の認識阻害魔法(スクロールの予備)を使いつつ、街道を避けて森の深奥を進んだ。
アランは道中、二十匹のオーク・ゾンビたちの気配を【死体並列思考】で完全に消し、森の植生に擬態させながら行進させるという、凄まじい上達ぶりを見せていた。
シルヴィもまた、怪我の痛みを一切表に出さず、鋭い索敵で俺たちの死角をカバーしている。
二日間の隠密行軍の末。
俺たちの前に、始まりの森とは明らかに次元の異なる、圧倒的な「光の密度」を持った巨大な大樹の回廊が現れた。
木々の一本一本が淡いエメラルドグリーンの光を放ち、大気中には肉眼で見えるほど高密度の、純粋なマナの粒子がキラキラと舞っている。
「ここが……ハイエルフの郷、リーズヘルテ……。同じエルフの郷とはいえ、流れるマナの純度が文字通り桁違いですね」
シルヴィが驚嘆の声を漏らす。
「すげえ……。ゲームの時より、グラフィックっていうか、空気の綺麗さが半端ねえな……。骨の身体でも、このマナの温かさがジンジン伝わってくるわ」
アランもローブの裾から覗く髑髏を揺らした。俺たちがその美しい回廊の一歩を踏み出そうとした、その時。
「――止まれ、異端の者たちよ。これより先は、神聖なるリーズヘルテの領域。穢れたマナを持つ者の立ち入りは禁じられている」
頭上から、鈴を転がすような、しかし凛とした鋭い声が響いた。
見上げると、光り輝く大樹の枝の上に、数人のエルフたちが音もなく立っていた。
彼らはアルテアたちの郷のエルフよりもさらに耳が長く、髪は透き通るような白銀色や金糸。そして纏っている軽鎧は、エデクロにおける最高級の魔導金属『ミスリル』で編まれた、美しい白銀の防具だった。
ハイエルフの守備隊。その中央に立つ、一際美しい弓手の少女が、俺たちに向けて冷徹な視線を向けている。彼女たちの持つ弓には、すでに目に見えるほどの暴風の魔力矢が番えられていた。
「俺たちは怪しい者じゃない。始まりの森の長、アルテアの紹介で来た。これを見ろ」
俺は認識阻害の「人間の大剣士」の姿のまま、懐からアルテアの手紙を取り出し、ゆっくりと掲げた。
銀色の魔力糸を見たハイエルフの少女は、一瞬だけ驚いたように目を見張った。
「それは……アルテア様の親書? ……お前たち、その姿は偽りだな? 認識阻害の奥にある、そのドス黒い混沌のマナと……そこのローブの男から漂う、死者の気配。なぜ、アルテア様がそのような者たちを……」
少女の警戒は完全には解けない。当然だ。俺の中身はゴブリンエリートであり、アランは上位不死族のリッチなのだから。
「通してくれ。俺たちは、この世界を、そしてお前たちの郷をも脅かす『影王会』という共通の敵と戦うために、力を求めてここへ来た。嘘だと思うなら、その手紙を長に届けてくれればいい」
俺はまっすぐに、ハイエルフの少女の瞳を見つめ返した。その瞳の奥にある、絶対に折れない「復讐の焔」と「覚醒の意志」を感じ取ったのか、少女はしばらく沈黙した後、ゆっくりと弓を下ろした。
「……分かったわ。私は守備隊長のセレニア。その手紙、我が郷の長へ直接届けてもらうわ。ただし、妙な動きをすれば、その瞬間に蜂の巣にするから国境へ命を置いていきなさい」
「ああ、構わない。案内を頼む」
シードたちは新たなステージ「ハイエルフの郷リーズヘルテ」へと足を踏み入れる。ここで手にする新たなる力と武具が、絶望に沈みかけたシードの牙を、さらに鋭く研ぎ澄ましていくことになる。




