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絶叫

 長い画廊を抜けると、あの亡母の部屋が待っている。


 そこから、悲鳴のような声が遠く近く響いていた。女の声だ。


「どうしてあの子を離れに行かせたりしたんです? お召し替えを用意したのは貴女なのでしょう?」


 侍女頭のアプスの厳しい声が飛ぶ。


 幼児を育てるため、愛らしく仕立てられた子供部屋。積もっていた埃も綺麗に拭き取られ、壁の柔らかなピンク色も鮮やかに見える。磨かれたベビーベッド、そして天井から吊り下げられて、くるくる音を立てて回るガラガラ。


 そのピンク色の部屋で、新米侍女のミリイが屈強な下男たちに押さえつけられ、尋問を受けていた。


 余りといえば余りに不釣合いな光景。


「だって、だって、そう思ったのだもの……。レアンが……レアンのお陰で、パージェ様が……」


「パージェ様と下民を関わらせる必要は無かった筈ですよ。それは申し付けてあったでしょう!」


 ぴしゃりとアプスが叱り付ける。レディ・ラアニは老侍女フェヌを側に控えさせ、ドレスの下に車椅子を忍ばせたまま、冷淡に窺っている。


「レアンが言ったの! 子供は大勢の中で育つもんだって。ひとりきりで閉じ込められていたって、パージェ様のためにならないって! あたし、レアンと同意見よ! だからお言い付けを破ったの」


 顎をきっと上げて一気にまくしたて、ミリイは俯いた。


「……でも……パージェ様が術医学生とお会いするようになったのは、レアンの話を聞いてくれたからじゃなかったわ。寧ろパージェ様はレアンに酷いことをなさったの。あのひとの命を奪ったのよ。誰かが死んだら誰かが悲しむなんて、あの方には分からないのよ。あの人殺し!」


 そこまで聞いたところでレディ・ラアニが扇の裏で何かを囁いた。フェヌがアプスに伝える。アプスは顔を曇らせると、淡々とミリイに告げた。


「あなたはお喋りが過ぎるそうよ。ラアニ様はお怒りでいらっしゃいます。今後あなたには、沈黙の侍女として働いて頂くことになります」


「沈黙の……侍女?」


 ミリイが繰り返したと同時に彼女を捕まえていた下男達の腕に力が篭った。ミリイはどうと絨毯の上に俯けに押し倒され、しっかりと拘束された。


 パージェが部屋に到着したのは丁度その頃だった。女の悲鳴はミリイの口から発せられたものだった。


「いや! 何するの、いや! いやよ! 沈黙の侍女って何! いや、放して!」


 ペンチを持った男が近づいてくる。青銅の血受けがミリイの顎の下に押し込まれ、鼻が塞がれる。もうミリイは口で呼吸をするしか無い。


 やりなさい、とレディ・ラアニの扇子が舞った。


 声にも音にもならなくても、部屋中にミリイの悲鳴が満ち溢れた。引き千切られた舌が青銅の血受けの中で、まだびくびくと波打っている。下男のひとりがすばやく彼女の口に布を詰め込んだ。鼻は解放されたものの、口からはだらだらと涎のように血が溢れ出してくる。


「あなたの声を奪いました。これからはあなたは沈黙の侍女としてラアニ様にお仕えするのですよ」


 淡々とアプスが告げた。ミリイは苦痛に悶えていて話を聞けているのかどうかも分からない。


 連れて行きなさい、とレディ・ラアニが扇の裏で囁いた。白い手袋が白魚のようにひらひらと舞う。数人の忠実なる沈黙の下男達は、遂に失神してしまったミリイを抱えあげると、礼をとって部屋を出ていった。


 当然、彼らにも舌は無かった。



 一部始終を見届けてからパージェはレディ・ラアニの前に跪いた。こんなことは日常茶飯事だったし、自分でも使用人の舌を引き千切ることくらい幾らでもやっている。ショックは全く無かった。


「お帰りなさいませ、伯母様。お会い出来ることを心からお待ちしておりました」


 ラアニは答えず、アプスに出て行くよう目で命じた。アプスは頭を下げ、部屋から出ていった。これで部屋には荘園主とフェヌ、沈黙の下男達が数名だけ残った。


「寂しかったんです、伯母様。分かったんです。僕は伯母様を愛しています。他の誰も、伯母様の代わりになる者など居ないのです」


 感情の無かったパージェが泣きそうな声で訴えている。その変化は部屋に居る全ての者が感じ取った。レディ・ラアニはフェヌの手を借りて車椅子から身を起こし、杖にすがって立ち上がると、カツン、カツンと音を立てて近寄ってきた。


「じゃあ、どうしてこんなに育っているのかしら?」


 くい、とパージェの顎を持ち上げる。確かに、冬に荘園主と別れた時より身長も伸びたし、肉付きも血色も良くなっている。


 ラアニの手がパージェの体をまさぐった。男物の衣装に隠された、でも今までとは明らかに違う、がりがりと痩せていない、骨のあたらない体躯を確認する。


「何かしらね、これは?」


 ラアニはパージェの上衣を徐に剥ぎ取った。ブラウスを捲りあげて、現れた滑らかな白い肌に手袋ごしの指を滑らせる。あばらの大分目立たなくなった腹から徐々に上へあがり、そして膨らみかけた乳丘へ。


「これは何なの? ねえ?」


 未発達の女性の胸、ピンク色の乳頭。男性にはありえない、両性だからこそ発現する二次性徴。女性化と男性化を繰り返しながら進んでいき、最終的には完全なヘルマフロディト(両性具有)の体を得るための、思春期の体の変化のひとつ。


 ラアニのしなやかな手が、パージェの上半身を剥き出しにする。


 居たたまれない気持ちを押し殺し、パージェは以前身につけていた、あの笑顔の仮面を纏おうとした。だが次の言葉で笑顔は完全に凍りついた。


「あり得ないわよねえ? アイン。貴方は男性ですもの。こんな体になる筈がないわ」


 アイン?


 アインスト?


「フェヌ、この者達に命じて頂戴。この見苦しい胸をえぐって平らにするのよ」


 僕は男性じゃない。両性だ。


 アインじゃない。パージェだ。


「どうしてこんな風に育ってしまったの。永遠に初めて会った時のままで居て欲しかったのに」


 カツン、カツン。杖の音が遠のいていく。フェヌに抱かれるようにして、荘園主は車椅子に再び腰を落ち着ける。


 屈強な沈黙の下男がじりじりと近づいてくる。彼らもパージェの蟲を恐れているのだ。


「僕は……男性じゃない」


 露出した胸を隠し、にじり寄る下男をねめつける。


「僕はアインじゃない! 僕はパージェだ! 父と同一視しないでよ!」


「そんな筈ないわ。アインはあたくしの婚約者ですもの。アインの子ならあたくしの子で無ければおかしいの。でもあたくしは子供が産めない。だから、アインの子が居るわけが無いのよ」


 ラアニは夢見心地と言った様子で答えた。


「エルギューヌが彼に嫁いだわ。子供も出来た。でも、妬ましいからあの子を殺したの。いい? 暗殺蟲を飲ませてあげたのよ。あの子の子供が生きている筈がないわ。だからあなたは過去の中から出てきたアインなの。出会った頃のままの、あたくしだけのアインなの」


 声が急に甲高くなった。


「この逆賊! 裏切り者! アインと結ばれるのはあたくしだったのよ! アインと褥を共にするのはあたくしの筈だった! アインを返して! あなたを返して! あたくしだけのアインを返して頂戴! 全てあなたの所為よ。あなたの所為で妹は死んだのよ。あたくしが殺すしか無かったのよ! あなたがあたくしに殺させたのだわ!」


 下男たちが力ずくでパージェを仰向けに押し倒した。数人がかりで四肢を押さえる。大きな刃物を持った男が近づいてくるのもおざなりに、パージェの中で思考がぐるぐると渦を巻いていた。


 逆賊って、ノエルの家の血のことじゃなかったの? 僕は父様の身代わりだったってこと? そんなの嫌だ。僕はパージェだ。僕は両性で十三歳のパージェだ。アインじゃない。パイベルジェレアだ。


 そう言えば伯母様は僕のことを一度も名前で呼んでくれたことが無い。


 嗚呼。クーイ。君の話をもっとちゃんと聞いておくんだった。


 会いたいよ、クーイ。君の話を聞かせて貰えば良かった。


 非情な光を滾らせて刃物が振り上げられ、鈍色の刃が勢い良くパージェの胸に叩き込まれた、筈だった。


 カツン、と音がして、微かに皮膚の表面が赤くなった。沈黙の下男達が幾ら得物を振るっても、パージェの胸には傷らしい傷をつけることが出来ない。毛穴から染み出した蟲達が皮膚の表面を覆い尽くし、歯と同じ硬度に変化して宿主の体を守っていた。


 何度も何度も刃物を振り下ろされながら、パージェはぼんやりと考えた。


 伯母様は僕を、パージェという存在を、認めてくれていなかったのかな。


 伯母様の世界に、僕は居なかったのかな。


 じわりと目が潤った。つい、と一筋、頬から耳へと彗星が流れ落ちる。


「化け物ぉ!」


 レディ・ラアニの金切り声が唐突に耳に響いた。


「殺しても死ななかった訳だわ。これは化け物よ! アインの姿をした化け物だわ!」


 ヴェールの下で、ラアニは手袋をした両手で頬を押さえ、錯乱したように悲鳴をあげ続けた。


「アイン! アイン! 助けてアイン! あなたを返して! いやああ、アイン!」


「お嬢様、お、落ち着いて下さいまし」


 老侍女フェヌが懸命にあやしている。ラアニの元乳母だったフェヌは、いつでもこうして荘園主を慰めてきたのだろうか。


「アイン! アイン! 呪ってやる、エルギューヌ、呪ってやるわ、あたくしのアインを奪った貴女を! あたくしの元に化け物しか残さなかった貴女を! 呪ってやるわ、あたくしを裏切ったアインを! そうよ、皆、みんな、お前がいけないのよ、穢れた血、悪魔の子、呪われた化け物!」


 金切り声は留まるところを知らなかった。パージェはそれが自分に向けられているものだと気づくのに時間を要した。だが、ヴェールに隠されたラアニの視線は確かに彼女を捕らえていた。


 伯母様が僕を見ている。昔なら嬉しくなった筈の場面。でもこの軽蔑と侮辱と恐怖と呪いの混じった視線を受け止めるのは苦痛だった。パージェは自らラアニから視線を外した。自分を押さえつけ、機械人形のようにひたすら刃物を振り下ろしている下男に改めて気付くと急に疎ましく感じた。


 白い鞭が一閃した。防御に徹していた蟲が攻撃に転じたのだ。沈黙の下男達は薙ぎ払われ、ある者は両腕を失い、又ある者は胴を丸太のように切断され、汚らしい液体を撒き散らしながら次々と倒れていった。パージェを虚しく叩いていた刃物は、持ち主を失って寂しそうにごろごろと絨毯に転がった。


 再びレディ・ラアニが金切り声をあげた。思えば伯母様の前で蟲を使ったのはこれが初めてだ。パージェは返り血に全身を濡らしたままゆるゆると立ち上がった。


「フェヌ、助けてフェヌ。あの者を牢屋へ、一生牢屋へ閉じ込めてしまって頂戴」


 ラアニが泣きながら老侍女にすがりつく。足の悪いラアニには、素早く逃げる手段は無い。かと言って、老侍女フェヌも既によろよろしていて、機敏とは言い難かった。


「車椅子を出して。逃げるのよ、あの化け物から。早くなさいな!」


 ラアニは生き残った沈黙の下男に声をかけて椅子を引かせ、部屋を出た。フェヌがよたよたとついて行く。パージェは振り返った。赤ん坊だった自分をあやしてくれた母の面影が残っていた部屋が、下男達の肉片で穢されてしまった。あの甘くやさしく、ほんのりと香る母の思い出も、今では噎せるような鉄錆の匂いでかき消されてしまっている。


「僕は、」


 エルギューヌと愛し合っていた筈の男の肖像画の前で、立ち竦む。


「僕は、生まれてくるべきでは無かった」


 ふらふらと部屋を出て、まだ明るい、燈が灯されたままの画廊を、壁に手をつきながらゆっくりと、よろめきながら歩く。


 アインスト・ラーベルトゥスの肖像画が目に飛び込んでくる。


「僕は、伯母様の子供でなければならなかったんだ」


 アインストの姿を暫し眺める。クーイに似ている。でも、確かに自分にも似ている。ラアニとアインが出会った頃の二人の絵は、今のパージェが遊び毛を撫で付け、きっちりと髪を男結いした服装にそっくりだった。


「伯母様。伯母様の目には、僕は最初から居なかったというのかい?」


 ふらふらと車椅子の後を追う。遠くから聞こえてくる人々のざわめき、車輪の軋む音に、パージェは魂が抜けたように吸い寄せられていった。


「伯母様の世界には、最初から僕は存在しなかったの?」


 荘園主の移動手段は車椅子だ。斜面を登るのは困難で、沈黙の下男達が四苦八苦していると、ぼんやりとしたパージェが追いついた。


「伯母様……」


 真っ白い、でもところどころに返り血を浴びた、血の気の無い手を差し伸べる。


「僕を叱って。僕を詰って。僕の心を弄って、甚振って、責め立てて、追い詰めて、苦しませて、貴女の望むまま、もっともっと酷い目に遭わせて、貴女の意のままにしていいよ。僕を壊して。僕を殺して、全否定して。お願い伯母様。僕が貴女を愛してしまわないように。でなければ――どうかお願い、僕を、貴女の世界から消し去ってしまわないで!」


 ぼろぼろと涙が頬を伝い落ちた。伸ばした手の先が、ぶるぶると震えている。


「僕はパージェ、パイベルジェレア・ローオル・ゲゼントラーレアです。アインじゃない。アインは過去の人です。僕を、今ある僕を視て。僕を愛して、愛してよ、伯母様! 僕は貴女の甥で、姪なんだ!」


 きしきしと擦れた音を立てて車椅子が身じろいだ。何時の間にか使用人たちが集まって来ている。パージェは、ここが地下、いや、塗り込められた一階部分ではなく、新館増築の際に造り直された大広間だということに気付いた。


 手を伸ばしたまま、パージェが歩み寄る。フェヌとラアニは後じさる。使用人たちは何事かと輪を描いて成り行きを見守っている。何処まで行っても荘園主と猶子の間は一向に埋まらない。


「あたくしを殺すつもり、アイン?」


 ヴェールの下から、震える声が搾り出された。


「貴方はさぞかしあたくしを憎んでいるでしょうね。あれだけのことをしたのだもの。でも愛していたの。愛していたのよ、アイン! 貴方をエルギューヌに奪られるくらいなら一緒に死を選びたいと思ったわ!」


「伯母様、僕は貴女のもの。僕を愛して。アインの形代ではなくパージェとして、僕自身として、僕を愛してよ……」


「近寄らないで、穢らわしい化け物!」


 ラアニは拒絶するように扇子を振った。危険を感じ取ったのか、老侍女フェヌがラアニを庇うように立ちはだかる。俯いたパージェの体からゆらゆらと煙があがり始めた。


「僕は……化け物じゃない」


 煙は空中で混ざり合い、絡み合い、何か得体の知れない形を作り出していく。


「……僕を化け物にしたのは、伯母様じゃないか!」


 パージェは顔をあげて、真っ直ぐにヴェールを見据えた。ヴェールの下でラアニが慄いたのが分かった。


「放っておけば良かったんだ。蟲なんて飲ませなければ、僕は病気で死ねたんだから!」


「アイン、貴女に暗殺蟲なんて飲ませてなどいなくてよ。あたくしが殺したかったのは、あの逆賊、エルギューヌだけですもの!」


 それでパージェの蟲はエルギューヌの健康な体内の記憶を持っているのだ。フレトベルゲージュ氏病の影響が一切出ないのは、母から直接蟲が感染したからだったのだ。僕は母様を殺してはいない。母様を喰い破った蟲が僕の体内に侵入したんだ。罪障感がひとつ減った。


「アインじゃない、僕はパージェだ!」


 鞭となった蟲を一閃させて、パージェは叫んだ。取り巻いていた使用人たちがひいっと声をあげて下がる。今のうちに逃げ出せばいいものを、この場の顛末を見たい気持ちのほうが上回っているらしい。

 

「伯母様、僕の名前を呼んで。僕はパージェだ。パージェだよ! アインじゃない!」


「近寄らないで、化け物! アインの姿をして、あたくしを惑わすつもり?」


「惑わすだなんて、そんな……そんなこと……」


 ぼろぼろ、ぼろぼろ。涙が伝い落ちてとまらない。


「伯母様、僕を消さないで。僕を貴女の世界に存在させて。邪魔なんてしない。構って欲しいなんて言わない。貴女の世界の隅に僕を置かせて。それだけでいい、それだけでいいから!」


「誰か、この化け物を何とかして頂戴!」


 もう限界だった。パージェも、そしてラアニも。命を受けた下男達が、蟲を恐れながらもじりじりとパージェを囲むように迫ってくる。


「五月蝿いよ!」


 あっけなく肉の壁は血みどろの肉塊と化した。ざわっと人波が割れて、様子を窺っていた使用人たちが脱兎の如く逃げて行くのが見えた。


「逃げないで何とかなさいよ! あなたたちはこの荘園を守る為に居るのじゃなくて? あたくしを守りなさい! この化け物から! この化け物を、永遠に封じて頂戴!」


 ラアニの金切り声、いや、泣き声にも似た甲高い悲鳴が響いた。ラアニに忠誠を誓うものは恐れ戦きながらも立ち向かってきた。が、蟲が一閃すると彼らは物言わぬ物体となった。レディ・ラアニと老侍女フェヌはどんどん広間の隅に追い込まれて行った。返り血を浴びすぎてパージェは全身べたべただった。歩くとねちゃねちゃと嫌な感触がして、絨毯に靴が張り付いた。立ち塞がる者を容易く薙ぎ払うと、最後に残ったのは、恐怖に怯える二人の女が縮こまっていた。車椅子から降りられないレディ・ラアニ、彼女を庇って身を投げ出している老侍女フェヌ。


「そこをどいてよフェヌ。僕は伯母様に用があるんだから」


 パージェはあっさりとフェヌの心臓を切り裂いた。ずるりとラアニの膝から崩れ落ちかけたところを、蟲を使ってぽいと放りやる。


「伯母様、どうかお顔を見せて」


 恐怖で固まっている荘園主の膝に攀じ登り、パージェは禁断のヴェールをめくりあげた。母にそっくりな顔が露わになる。香りの強い赤い唇、銅色の瞳、長い睫毛。年齢よりもずっと若く見える。もし子供を産むことが出来たなら、きっとまだ嫁の貰い手があったに違いない。これが、これが僕の愛していた伯母様なんだ。パージェは冷たい手を頬に走らせた。返り血がついてレディ・ラアニの白い肌に茶色い染みが線を描いた。嗚呼、こんなに近いのに、こんなに近いのに、伯母様の瞳には恐怖しか映っていない。


「ば……け……物……」


 真っ赤な唇が微かに動いた。それを聞きたくなくて、パージェはラアニの唇に唇を重ねた。ぬるりとした感触だった。鉄錆の味がした。全ては返り血の所為? いや、ラアニがパージェの舌を力いっぱい噛んだのだった。だが、蟲に守られている彼女は気づくことさえ無かった。パージェは更にねっとりと舌を絡めた。このまま息もつけないほど、深く深く繋がっていたかった。


 背中に痛みが走った。ラアニが自由になる手で必死に杖を振るったのだ。パージェは我に返り、そして、愛する伯母が自分を受け入れてくれることなど有り得ないと思い知った。


「こっ、この化け物! 出て行きなさい、今すぐ、この荘園から!」


 ラアニは杖をつきつけて迫った。


「アインの姿であたくしを弄ばないで! 悪魔の子! 何処へなりと消えてしまうがいいわ! いやああ、いやああああ! 誰か、誰かあたくしを守る者は居ないの? 誰かこの化け物を摘み出して! あたくしの目の届かないところに、一生閉じ込めておいて! アインの姿であたくしを冒涜したのよ! そうだわ、生きたまま壁に塗り込めておしまいなさい! ねえ誰か! 聞いているの、誰か! 誰かー!」


 広い広い大広間に、錯乱しかけた荘園主の声だけが反響する。応える者は誰も居ない。大理石のタイルも、赤い絨毯も、先刻まで人間だったもののなれの果てで埋め尽くされている。様子を見に来ていた野次馬達も、自らの命の危機を感じて逃げてしまっていた。


「伯母様、僕を怖がらないで。そんな目で見ないで」


 パージェは再び荘園主の手を取った。車椅子から降りられないまま、ラアニは精一杯仰け反り、自由になる手で杖を容赦無く振るった。痛みは感じなかった。蟲が防御してくれているのか、或いは別の理由か、パージェには分からなかった。彼女には恋焦がれていた人物が目の前に居るという事実だけが全てだった。


 はらり、とヴェールが落ちた。ヴェールを縫い込んであった黒いボネ・タ・ベックも一緒に滑り落ち、金糸銀糸やビーズをあしらった髪飾りが床に散らばり、そして、銅色の、長くやわらかな髪がふわりと解けて、パージェの視線を奪った。長い睫毛の向こうから、銅色の瞳が睨む様にこちらを見据えている。


 つう、とパージェの指が恐れに凍りついたラアニの顎をなぞり、腰まで届く髪を梳くように撫でた。喉元から嗚咽にも似た笑いがこみ上げてくる。彼女は笑った。泣き声を立てて笑った。つと言い知れぬ感覚に襲われ、急に着衣の前が湿ったことにも頓着せずに、からからと笑い続けた。


「つかまえたよ……僕の、僕だけの、伯母様」


 パージェは呟くと、焦がれ続けてきた者に、冥く永遠に終わらない接吻をした。




 噂は瞬く間に広まり、使用人達や荘園に暮らす者達が逃げようとしていた矢先、数台の馬車が正面の門を潜り抜けた。馬車から降りた貴族風の男は周囲を見回した。衛視の一人も見当たらない。訝りながら館へ向かうと、扉は開いており、中の凄惨な光景がいきなり目に飛び込んで来た。


「あははははは、あはははははははは。クーイ、僕、伯母様を手に入れたよ! もう放さないんだ、僕の伯母様。僕だけの伯母様を! あはははははは……」


 泣きながら狂ったように笑い声をあげている血塗れの子供が居た。上等な男性ものの衣装、男結いにあげた髪、でもその全てがぐしゃぐしゃに乱れている。腕に抱きしめられているのは人間の生首。目を見開いたままの、良く知っている女性の。妹の。レディ・ラアニの。


「……一足遅かったようだな。君がパージェかい? 私はオフトウェブル・ゲゼントラーレアス。君の伯父だ。迎えに来た。私と一緒に来たまえ」


 パージェはまるで人形のように、言われるがままに馬車に乗った。生首を抱きしめたまま。泣きながら笑い続けながら。返り血にまみれたまま。


「……蟲導士とはあの少年も巧く言ったものだな。この年齢でこれだけのことが出来るのなら、仕込めばかなりの戦力になりそうだ。これは実の甥とは言え、良い拾い物をしたものだ。あの少年に感謝せねばな……」


 オフトウェブル辺境伯は、事件現場をぐるりと見渡すと、冷静に呟いた。


「この荘園は閉鎖しよう。ここで働いていた者は全員我が領に引き取ることを約束する。まだまだ戦争の残り火は絶えないからな、人員も戦力も、まだまだ幾らあっても構わんだろう」


 パージェはそのまま辺境伯に引き取られた。そして伯父のもとでの新しい生活が始まった。生活に不自由は無かったが、彼女の夢は儚かった。生首は腐り始め、宝物のように大切にしていたラアニの眼球すら水分を失って、数日のうちにどんどん縮み、干乾びてしまったのだ。


「伯母様、伯母様、伯母様が消えてしまう。伯母様が醜く壊れてしまう!……どうしよう、どうしたらいいの? 教えてよ、クーイ。会いたいよ、クーイ! 君に会いたい……」


 そして、五年が過ぎた。


 誰も来なくなったシーグステイン山中に、置き去られ、忘れられた荘園館跡があった。


 黒い真っ直ぐな髪を肩まで伸ばした少年がひとり、薄暗い埃の中で誰かをずっと待ち続けていた。昔、少しだけ過ごしたことのある打ち捨てられた部屋には、時間を刻むことを忘れた柱時計がそのまま残されている。中には四つ折の手紙が隠されたままだ。


 急ぎでなければ、きちんと封筒に入れて封蝋をしておくんだった。そうしたらあの方が見て下さったのか、そうでないのか、見当もついたものを。この状態ではパージェ様の目に留まったのか如何かも定かではない。


 あと三ヶ月だけ待ってみよう。あの方がもしもこの手紙の内容を見ていて下されば、きっと――。


 ――きっと、約束通りここへ来てくれる。またここで会える。


      ――二人の時間が、すれ違ってゆく――



                             ―子供篇・完―

子供篇はここで終了です。後日譚に当たる大人篇に続きます。

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