絵の語るもの
「なあ……あの時、お前が言ってたコト、ほんとなのか?」
馬車に荷物を積み込む作業の合間に、ソロスコはこっそりとクーイに耳打ちした。黒髪の少年は伏し目がちに小さく頷いた。
「血の絆にかなう絆なんてない、って、アレクセイっていう人が教えてくれたんだ。希望を失った僕に望みと生きる術を教えてくれた人なんだけど。だからパージェ様とは繋がれると思っていた。人が来てしまったから逃げるしかなかったのだけれど、本当はパージェ様を説得したかった。羨ましかったんだよ。家族のいる君が。ラアニ様を慕うパージェ様が。みんなが。だって僕には誰もいないんだもの。一族郎党皆殺しにされてしまったんだもの」
いつもは驚くほど冷静な彼が、顔をあげようとしなかった。
「僕は夢を見ていたんだね。星を手に入れようと高望みをし過ぎてしまったんだね。そう思うことにするよ。入塔試験もあるし、勉強を……頑張らなくちゃ……」
唇を噛み締めてふうっと息を吐き、彼は何事も無かったかのようににっこりした。ソロスコは目頭が熱くなってくるのを感じた。クーイの背に手を回す。
「別れ別れになっても、オレら、友達だかんな! 忘れるなよ!」
「……ありがとう」
クーイは泣きじゃくる友人の手の温度を背に感じた。帰ったらこの友人の記憶も魔術で奪わなければならないのだ。振り返ると豪奢な新館の向こうに古びた旧館がちらりと覗いている。彼女はあそこにいるのだろうか。
「さようなら、パージェ様」
術医学生たちは、めいめいグループに分かれて馬車に乗り込み、荘園を後にした。
シーグステインの山々が若緑と花の色に染まる頃、レディ・ラアニの馬車が着いた。出迎えの儀式と音楽が荘園を一変させる。荘園主を乗せた輿がゆっくりと新館に近づき、使用人たちが頭を垂れて出迎える。と、いきなり目の前に若い侍女が飛び出した。
「ラアニ様、お話がございます! パージェ様は、あの術医学生たちのところに入り浸って、春祭りにまで参加していたんです!」
輿が止まった。扇で顔を覆ったラアニがちらりとミリイを見やる。侍女頭のアプスが恭しく進み出てミリイの頭を押さえ礼を取らせて付け加えた。
「事実でございます、ラアニ様。パージェ様は新館の、エルギューヌ様のお部屋にまで入り込んでいらしたのです」
「何ですって?」
ラアニは低い声で呻いた。そして真っ赤な唇を震わせた。
「誰が手引きしたのかしら?」
「そこまでは……術医学生たちも戻ってしまっておりますし、ソーレル様にお伺いを立てても分かるお話かどうか……子供のしたことでもございますし……」
アプスは言葉を選びながら慎重に答えた。事実、パージェが荒れ狂っている状態は目撃したものの、ソロスコとクーイの姿は現場には既になく、祭りの所為で子供達の動向など調べようもなくなっていた。
「フェヌ」
ラアニは自分付きの老侍女に囁いた。
「彼を、あの部屋へ、連れて行っておくように言って頂戴」
新緑の眩しい筈の山々が、窓ごしに霞んで見えた。
あの道化服も、離れで着ていた動きやすい服も奪われ、パージェは言い知れぬ不安に襲われていた。旧館に閉じ込められている所為なのか、物音ひとつしない。クーイだったら、彼だったら、忍んで来てくれると思ったのに。あれだけ酷いことをしても、僕を変わらず慕ってくれた彼なら。
ふと窓辺で気づいた。隙間風の吹き込む歪な窓枠に手紙のようなものが引っかかっている。広げてみるとクーイの字だった。
『離れの貴女のお部屋の時計の中をご覧下さい』
離れ。もう行けなくなってしまった場所。廊下にも外にも、しっかりとレディ・ラアニの見張りがついている。この手紙を運んだのは誰だろう。あの白い羽の生えた蝿かな。一度くらい名前で呼んでやっても良かった。あいつの名前、覚えてないや。
ぎい。マスクに顔を隠した沈黙の下男が扉を開いた。男髷に髪を結い、男物の衣装に身を包んだパージェは振り向いた。下男たちは数人で彼女を取り囲むと、まるで囚人を連れて行くかのように、廊下へと向かった。
荘園主に呼び出されたのは、あの画廊の奥の部屋だった。今は壁面に明かりが灯っていて壁に飾られた絵のひとつひとつが良く見てとれる。パージェはクーイの言葉を思い出し、絵に隠された謎を見極めようと目を凝らした。
一見普通の画廊だった。家族の肖像を描いたもの、風景を描いたもの、レディ・ラアニと亡妹エルギューヌ、そして長兄オフトウェブルの三兄弟の肖像画もあった。ラアニとエルギューヌはとても良く似ており、ラアニの髪は直毛なのに対して、エルギューヌは少しふわふわとしていた。三人とも髪も瞳も銅色だ。オフトウェブルはやがて髭を生やすようになったのか、騎士の姿でポーズを決めている様など、年齢より年かさに見える。
姉妹は仲が睦まじかったようで、二人で遊んでいる絵が多かった。殊に屋外へ出て行くのが気に入っていたらしく、馬に乗って駆ける若きラアニの姿など、今の彼女からは想像が出来ないものだった。長い髪を後ろで束ね、乗馬服に身を包んだラアニはまるで男装の麗人のようにも見える。
ところが別の人物が絵に登場するようになると、画風が変化した。亡母の部屋で見た陽気そうな男と、忌まわしきアインスト・ラーベルトゥスの若き頃。後者は年齢的にも特にクーイを連想させたので、見ているのが辛かった。ドレスアップした姉妹をエスコートする二人の少年紳士。屋外でのダブルデート。ピクニックや乗馬、狩り、釣り。幸せそうな亡母と伯母様。絵を見る限りではアインストも満更悪人には見えない。画いている人もそう思いながら描いたのだろう。ティーンエイジャーの、初々しい甘やかな雰囲気が絵から滲み出している。
幸せな絵はぱったり止まる。
大きなカンバスに、一面の血の赤。
場所は森の中と思しき急な斜面。足が不自然な方向に曲がった馬が倒れこんでおり、潅木に下半身を貫かれて倒れているラアニ少女。馬から下り、潅木に手をかけて、斜面を滑るように今まさに駆け寄ろうとしている、蒼白になったアインスト少年。
血。血。血の色。毒々しいまでの赤。
ラアニ少女の苦悶の表情は影になっていて見えない。でも、この血の量でわかる。
伯母様はこの時、足の機能を失ったのだと。
趣味だった乗馬を失ったのだと。
そしてあの手紙を思い出して、気づく。
この怪我で、ラアニは出産能力も失ったのだ。
貴族女性は子供が作れなければ、当然家同士の婚姻は出来ない。子供を、ひいては後継者を残すのが貴族夫人の務めだからだ。
だとしたら。だとしたら。
あんなに仲が良かったのに、ラアニ少女はアインスト少年とは結ばれることが出来なくなってしまって。
代わりに妹姫のエルギューヌがアインストに嫁ぐことになって。
足と出産能力を失ったラアニは二度と社交界に出ることも出来ず、この辺鄙な荘園に閉じ込められているしか無くて。
嗚呼。嗚呼。そういう訳か。
クーイが言いたかったのはそういうことなんだ。
エルギューヌとアインストの結婚式の絵の前で愕然となる。
画面の隅、陰になっていて良く見えない場所に、憎憎しい表情でアインストを見つめるラアニの姿を見つけてしまった。
参列者の中には、エルギューヌの元婚約者も混じっている。こちらは表情は読み取れないが、心穏やかとは言いづらい雰囲気を纏っていた。
当のエルギューヌも、困惑した表情だ。視線は元婚約者の席に注がれている。アインストも同様だが、こちらは貴族界とはそういう場所だと割り切ってでもいるのか、余り態度などでは窺えない。
『誰もが悲劇の主人公だったって訳だ!』
クーイが納得した理由が、やっとわかった。
レディ・ラアニは本当はアインストと結ばれる予定だった。
エルギューヌは本当は嫁ぐべき相手がいた。
事故による不条理な婚約破棄。不本意な結婚代行。そして出産。
自分が望まれなかった子供だと言うことがまざまざと分かった。本当はパージェは、ラアニの腹から産まれてくるべき存在だったのだ。
ああ、あの手紙。あの母の遺した手紙を真面目に読んでいれば、書いてあったことだ。見たくなくて、気付きたくなくて、目を背けてしまったけれど。もうこの事実は、認めざるを得ない。
僕は伯母様がアインストと出会った頃の彼にそっくりに育ってしまった。あの絵がクーイに似ているということは、自分にも似ているということだから。……そう、伯母様は僕が十歳になる頃から避けるようになっていった。アインスト達が絵に表れるようになった年頃。パージェは常人より成長が遅かったから、父達があの絵で十歳くらいだとは言えないけれど、少なくとも同じくらいには見えた年頃。
でも。でも。違うんだ。
僕が疎まれるのは、アインストが逆賊だからであって。ノエルの血を引いているからであって。母様を殺してしまったからであって。
そうだよね?
ずっとそう聞かされていたんだ。
そうだよね、伯母様!




