PROLOGUE
ここから、大人篇(初公開部分)になります。
それは、十年ほど前のこと。
誰も来なくなったシーグステイン山中に、置き去られ、忘れられた荘園館跡があった。黒い真っ直ぐな髪を肩まで伸ばした少年がひとり、薄暗い埃の中で誰かを待ち続けていた。昔、少しだけ過ごしたことのある打ち捨てられた部屋には、時間を刻むことを忘れた柱時計がそのまま残されている。中には四つ折の手紙が隠されたままだ。
急ぎでなければ、きちんと封筒に入れて封蝋をしておくんだった。そうしたらあの方が見て下さったのか、見当もついたものを。この状態では、パージェ様の目に留まったのか如何かも定かではない。
三ヶ月、待ってみよう。あの方がこの手紙の内容を見ていて下されば、きっと――。
その三ヶ月は虚しく、瞬く間に過ぎた。巨鳥のミラに乗ったサイ・グロノが少年を迎えに来た。
「潮時だ。この辺りにはもう誰も住んではいない」
巨漢は窓越しに、言葉少なく少年に告げた。少年は俯き、変色した手紙を柱時計から抜き取ると、黒衣の内ポケットに仕舞った。
「……お約束は守ります。私はノエルの名を捨て、一族の謂れ無き汚名を晴らすことを諦めましょう。あの方がつけて下さった新しい名前、医学士見習いのクリストファー・ハーウィンとして、塔に篭って生きる事に致しましょう」
サイ・グロノは静かに少年の言葉を聞いていたが、ぽつりぽつりと応じた。
「それでも、お前が故ノエル侯爵子息に変わりは無い。お前は紛れも無く〈精霊の子〉。その旧貴族様の濃い血と精霊力で、狂気に苛まれるあの方をお救いしてくれ、キット。それはお前にしか出来ないことだ」
(パージェ様……)
少年は再び柱時計を、打ち捨てられた部屋を眺め回すと、意を決したように荷物をまとめ、ミラの背中に跨った。
一度だけ振り返ったその表情は、伸びた艶やかな黒髪に隠されて見えなかった。




