姫君の我儘
「出鱈目では無いのです。パージェ様はもともと大変珍しいご病気をお持ちでいらっしゃるために、蟲を服従させることがお出来なのです」
重い口調のまま、教授は静かに説明を始めた。器換蟲がどういったものなのか、フレトベルゲージュ氏病がどういうものなのか、二つを併せ持つパージェがどれ程特異な存在であるか。専門用語をなるべく廃し、無学な彼女にも理解出来るよう、概要だけに絞って話す。
「――パージェ様は特別なのです。誰も蟲に抗う術は何ひとつ持って居らんのです。我々もクーイも他の者も、勿論ラアニ様も、蟲にひと度感染したら最後、全身を喰い破られて命を落とすだけなのです」
「……」
パージェは俯いた。理解が進むに従って頭蓋骨を直接鎚で叩かれるような衝撃を覚える。蟲が少年を喰い殺す可能性については多少考えたが、正直蟲がそこまで恐ろしいものだとは全く思わなかった。彼女はクーイの側に呆然と立ち尽くした。少年の体内には欠片さえも残していない筈だ。だが不安が指先から這い上って来るのは……何故?
頭の中がぐらぐらする。世界が難破しかけの船のように揺れている。目を瞑り、拳を握った。彼の中には蟲は居ない。もう一度口の中で繰り返す。彼の中には蟲は居ない。絶対に居ない!
そろそろと指先を触れた。皮膚の内側に意識を向けて、すぐに諦める。ここでは駄目だ。寒過ぎて蟲が竦んでいる。もっと暖かい場所へ移らなければ、確かめることも出来ない。
彼女は身を屈め、毛布の上からクーイに両腕を回した。しっかりと腕に力を込めて引っ張る。重い。寒くて足が、腕が、うまく動かない。
「パージェ様?……何をなさって……」
「連れて、帰るんだ」
狼狽えるハリー教授をよそに、息を切らせながら再挑戦を試みた。足の下は堅い石、そして地面。不安定な勾配屋根の上でも背負えたのだ。地面の上で彼を抱え上げられない筈がない。
「ですが、先程お話を致しました通……」
「煩いよ!」
足がもつれ、石のベッドに脛をしたたかに打ち付けた。パージェは屈んで脛を擦った。目の前に、崩れた毛布の隙間から白くて堅いものに包まれた少年の腕が覗いている。
「絶対に蟲なんかに奪られるもんか。僕は彼と一緒に居るんだ、だから部屋に連れて帰る!! 一緒に居るんだ!!」
パージェは叫びながら眠る少年の腕に、正確には腕を固めるギブスに額を接した。
「一緒に部屋に帰るんだ!!」
「っざけんなよッ!!」
その時突然声が響き渡り、彼女はびくりと肩を震わせた。
教授が慌てて振り返ると、真っ白な外気を背に暗い影が仁王立ちしていた。影は友人の扱いに衝撃を受けていた。抑えに抑えていた怒りがふつふつと沸きあがる。自分を奮い立たせようと、小ぶりな蝙蝠の翼を羽ばたかせた。
「っざッけんなッ!! 全部、姫さんがやったことじゃねーか!!」
影――二人の後を尾けていたソロスコは、もう一度吠えた。
「タルヴァッカやクーイに大怪我させて、蟲まで感染しやがって!! 先刻部屋で、全部自分の所為だってゆったよなっ!! 認めたよなっ!?」
涙を滲ませながら目に力を込め、拳を振る。
「だったらもう二度とクーイに近付くんじゃねーっ!! ご自分のご立派なお屋敷に帰っちまえ!! 金輪際、離れなんかに来んなっ!!」
そう叫ぶと、彼自身も思いがけないことに足元に落ちていた石を掴み、パージェに向かって投げつけていた。石は弧を描いて冷たい寝台に落下し、パージェは一瞬たじろいだ後、クーイを庇うように身を投げ出した。石は彼女の背中に鈍い音を立てて当たった。姫君は顔を伏せたまま沈黙し、ハリー教授は息子につかつかと歩み寄って平手をくれた。
「部屋に帰っていなさい、セール」
父親の声は何時に無く低く、そして険しかった。ソロスコは唇を噛んで俯き、踵を返して走り去った。
「パージェ様……」
案ずるように教授が姫君に声を掛ける。パージェは身動ぎもしない。
「……分かってる……分かってるよ。僕の所為だもの。あの時僕が屋根から落ちたりしなければ……」
やがて顔を埋めたままパージェは微かな声を立てた。その声はゆるやかに嗚咽に変わる。
「いやだ……側に居たいよ……ひとりに戻りたくないよう」
指先で毛布をぎゅっと掴んだ。あんなに熱かった彼の肌が、今は氷のように冷たくこわ張っている。パージェはすすり泣いた。
ハリー教授は黙って見守り続けた。程なくして彼女が泣き疲れると、教授はクーイの体を繋ぐ機械やチューブをゆっくりと外し始めた。
「仕方がありませんな。彼を部屋に戻すこととしましょう。そうお泣きになられますな」
教授は少年を幾重の毛布ごと抱え上げた。
「その代わりパージェ様に彼を看病して頂くことになります。よろしいでしょうな?」
パージェは泣き腫らした目を上げ、教授とクーイとを見比べた。
そして彼は離れに帰って来た。新しい病室はパージェの隣室に決まり、すぐに看護用品や機械が運び込まれる。医学生達の使用する階から隔てられたのは、やはり隔離の意味があってのことだ。
当然必要のない者は立ち入りを禁じられた。ここに立ち入ることが出来る者は、彼の治療および世話に当たる教授達と、部屋の清掃や細々とした用事を行う離れ付きの使用人の一部だけだ。訪れる者は皆防護用のマスクと手袋の着用を義務付けられた。無防備なのはパージェだけだ。彼女には簡単な日常作業、即ち水汲みと洗濯物及び食事の上げ下げが任された。
「ハリー先生、本当にこれでよろしいのですか?」
事情を知る幾人かの教師たちに問われ、ハリー教授は難しい顔をした。勿論良い訳が無い。一時凌ぎに過ぎないことは分かっている。だが、どうしたら良いと言うのだ? ハリー教授は内心呟いた。
分からない。分かろう筈もない。取れる手段はもう残されていない。せめてクーイのあの怪我が長引くことを祈るだけだ。




