蟲の脅威
嫌な予感が頭を掠めた。身を乗り出して問い質そうとする。父は手を振って息子の言葉を遮った。
「いや、手術のほうは大丈夫だ。後遺症も全く無いだろう。……だが」
ハリー教授はそこで一息止めると、ひどく言い難そうに続けた。
「彼は――彼は、器換蟲に感染したかも知れない……そうだ」
「ええッ!?」
ソロスコの全身の血が、一気に地面に吸われてしまった気がした。
器換蟲。パージェの体内に潜む変幻自在の寄生虫。タルヴァッカを宙吊りにして骨を砕いた白い鞭。彼女を透視検査した時に見た、蛇のようにのたくる内臓。それに感染したかも知れない、と言うことは……。
「そ、それってマジなのかよー!? たいへんじゃねーか!! ど・ど・どどうすりゃいーんだよ、治せんのかよオヤジ~~!?」
思わず父の胸元に掴みかかった。
「セール、『かも知れない』と言ったろう。確定では無いのだよ。だがクーイ自身が感染する可能性の高い出来事があったと言っているのだ」
ハリー教授は言い辛そうに息子から顔を逸らした。
「確かに、未だ器換蟲については良く分かってはいない。が、少しでも手掛かりが掴めるかも知れんし、検査を勧めてみたのだが……断られてしまった。『パージェ様を信じておりますから、疑うような真似は出来ません』だそうだ……」
聞いているソロスコの口の中が、からからに渇いてゆく。
「……そこで、だ。我々は、……クーイを……隔離することにした」
「!! なっ!?」
「いいかセール、よく聞くんだ。これからは誰も彼に近付いてはならない。手袋なしに触れることは勿論、言葉を交わしてもいかんのだ。万一本当に感染していたとしたら、ほんの少し唾液が飛んだだけで感染を広げることになってしまう」
「…………」
「彼は……墓所の、遺体保管室に移ったよ……」
淡々と父は告げた。ソロスコは、クーイの為に何か言ってやりたいと思った。なのに言葉が浮かばなかった。
ショックが鉄砲水のように目と喉に押し寄せて来た。
「っ……!!」
声が喉につかえ、ソロスコはただ俯いて拳を握った。父の声がしつこくしつこく頭を回っている。隔離? 遺体保管室? クーイに近付いてはならんだって? 言葉の意味が全然分からない。分かりたくない。たらたらと頬を伝う涙を拭って唇を噛んだ。内容を理解してしまったら、父の言葉を認めることになってしまう。そんな気がして涙を堪える。
「……意味が全然分からないよ……何を……言っているのさ……?」
ふと声が聞こえた。我知らず気持ちが唇から零れてしまったのだ。
「感染って何のこと? もう彼の中に蟲は居ないよ。母様の二の舞いになんか絶対させやしない……」
声は続け、漸くソロスコはそれが自分の発したものでは無いことに気付いた。さあっと背筋が強張る。恐る恐る振り返ると、そこには濡れ髪にバスローブ姿のパージェが寒そうに震えていた。
ずっとついて来ていたのだ。
「だから、……だから僕を、彼に会わせて」
母親を探し求める幼子めいた、何とも堪らない気持ちを誘うあの表情のままで、パージェはハリー教授に詰め寄った。力なく掠れる声がまるで涙をこらえているように聞こえる。
「彼の怪我はもういいんだろ、もう治ったんだろう? 先刻大丈夫って言ったよね。怪我が治ったら僕の好きにしていいって、また会いに来るからって約束したんだ、だから彼に――どうか」
ソロスコは再び微かに、そして以前よりずっと強く胸騒ぎを覚えた。彼女がタルヴァッカをめちゃめちゃに傷つけたのだし、クーイに酷い怪我を負わせ、自分の上着とトランプカードを台無しにしたのだ。いや……そうでは無い。それがひっ掛かっているのでは無い。しかし何なのか自分でも分からない。彼はちらりと父を見た。
ハリー教授は黙ったまま、パージェに服を掴まれるままに任せていた。驚きに見開かれた目は程なくして複雑な表情に満たされた。
「………わかりました」
長い長い、永遠かとも思えるほど長い沈黙の後、教授は囁いた。
「彼のもとへご案内いたしましょう」
だがソロスコだけは、父の目が苦渋で歪んでいるのをおぼろげに感じ取っていた。ゆえに二人にこっそりついて行くことを考えた。
遺体保管室は墓地の外れにひっそりと建つ鉛色の建物だ。死体を扱うがゆえに、建物の中はむしろ外よりも寒々しい。
ちらほらと雪の舞う中、パージェは教授と共に重たい石の扉を潜った。冷たく澱んだいやな臭いのする空気が容赦なく二人の顔に迫る。干からびた死の臭いだ。彼女は微かに戸惑いを覚えた。自分が知っている死の臭いとは随分違う。命が失われたばかりの生々しく温かい死とは。
教授は小さな明かりを点した。蜘蛛の巣と塵芥にうっすら隠された黄泉の入り口、散乱した石造りの空の棺が薄闇に照らし出される。壁に造りつけられた巨大な棚には、着衣の人骨が行儀良く並べられていた。
そして部屋の中央、石で出来た冷たいベッドに少年は寝かされていた。彼を囲むように術医学治療器材と陶製のストーヴが置かれている。だが鉛色の壁から滲み出す冷気は、ストーヴの放つ僅かなぬくもりすらも呑み干していた。
「……クーイ……」
パージェはよろよろと少年に歩み寄った。毛布に何重にもくるまれた彼の顔を覗き込もうと、石のベッドに手をつく。氷に触れたと思うほどの冷たさに、すぐに手をひっこめた。
チューブに繋がれたまま、クーイは眠っていた。薄闇が被さって彼の顔は蒼黒く見える。死者と同じ皮膚の色。パージェは彼を見つめたまま、凍える指先を擦り合わせた。良く似た部屋を覚えている。寒くて寒くて堅いベッドに身を縮めていた記憶。吹き込む隙間風がいつもカーテンを揺らしていた――。
「ねえ、彼をあっちに戻してよ。ここは寒すぎるよ」
戸口で待っている教授に、パージェは声を掛けた。
「何してるのさ。まさか近寄れないほど蟲が怖いのかい? 蟲なんてただの便利な道具じゃないか」
「……パージェ様」
ハリー教授はその場から動かないまま、重たく口を開いた。
「もし、蟲がほんの僅かでもクーイの体内に潜り込んでいたとしたら……彼は命を失います。半年ほどで、必ず」
「えっ」
思いがけない言葉に、教授を振り返った。
「我々とて同じです。もし蟲をほんの少しでも吸い込んでしまったら、半年後には命を失います。今のところ我々には何ひとつ抗う術はありません。残念ながら感染即死を意味するのです」
「感染……即、死……?」
意味が飲み込めず、パージェはその言葉を口の中で何度も反芻した。
「そ、そんな筈ないさ。だって僕はこうして生きているもの! 出鱈目言うなよ!」




