醜い僕の肌
かっち、こっち、かっち、こっち。
寄せては返す波のような規則正しい柱時計のリズム。揺り起こされて段々視界が晴れてゆく。目の前には見慣れた天蓋の錦模様。切り裂かれてしなだれる天蓋布。不思議と懐かしい、離れの自分の部屋。
ボーン、と時報が鳴った。布をかき分けて文字盤に目を凝らす。朝だ。
『おはようございます、パージェ様。お食事をお持ち致しました』
カチャリと扉が開いて、ワゴンを押しながら黒衣の少年が入って来る。彼は黒水晶の瞳で僕の顔を見て『お目覚めの気分は如何ですか?』って微笑むんだ。僕は「待ってたよ」って迎えよう。
――今ならきっと言えるのに。君はまだ、目を覚まさない。
彼が目を覚ましたら一番に何て声を掛けよう。伝えたい気持ちはこんなにいっぱい、喉から飛び出て来そうなくらい溢れているのに、どうして言葉に置き換えられないんだろう。
ああ、いけない、もうこんな時間だ。水を汲みに行かなくちゃ。
パージェは空の水瓶を抱えて自室を出た。教授に教わった通りに廊下にワゴンを引っ張りだし、空の水瓶を乗せる。続いてクーイの病室に入り、奥の間から水瓶を取って来る。ちらりとベッドを覗くと少年は未だ憔悴しきった表情で眠り続けていた。
大きくて重い水瓶を積んだワゴンを押して使用人専用の通路に向かう。長いスロープを下り、一階の井戸まで水を汲みに行くのだ。二つの水瓶がずっしりと重くなった帰りの坂道は、更に大変である。
水汲みがこんなにしんどいなんて、実際にやってみるまでは想像もつかなかった。最初は空の水瓶を一階に運ぶだけでぐったりしてしまった。それでも毎日繰り返して、何とか人の手を借りずに一往復は出来るようになった。湯船に湯を満たそうと思ったらこれを三往復はしなくてはならない。今まで僕は何も考えずに水を使い捨てて来たんだな。
そうだ。クーイが治ってまた前みたいな生活に戻れたら、風呂の回数を減らしてあげよう。水汲みの重労働から少しでも彼を楽にしてあげるんだ。きっと喜んでくれるよ。……そんなことを考えながら、クーイの部屋に水瓶を運び込んだ、その時。
「……パージェ……様……」
ベッドのほうから微かな声がした。パージェは驚き、反射的に水瓶から手を放しそうになった。折角汲んだ水を零すまいと慌てて腰を落とす。
「……」
水瓶を床に下ろし、そろそろと彼女は振り向いた。ベッドに寄ると、チューブに繋がれたまま、少年が薄く目を開いていた。彼が目覚めたら何て声をかけよう。あれこれ考えていた筈なのに何ひとつ思い出せない。どうしよう、どうしよう。パージェは何も言えず立ち尽くした。
漸く思い付いたのは大人を呼ぶことだった。特別にしつらえられた呼び鈴は教授達の部屋に通じている。彼女は呼び鈴を叩いて待った。
ほんの数分でマスクをつけたハリー教授が駆け付けて来る。
「気がついたのか?」
教授は真っ先にベッドに走り寄り、少年の容体を確認した。チューブの下で少年の口が微かに動いたのが見えた。ハリー教授は耳を寄せた。
「いかん。抜糸が済むまでは我慢しなさい」
すぐに首を振った。するとまたチューブの下の口が動く。一体何を話しているのだろう。パージェは気になって、二人を窺いながらそろそろと近寄った。
「クーイ、今は体を真っ直ぐにして休むのが大切なのだ。傷が治ったら長椅子に戻っても構わないがね」
長椅子? パージェは部屋を見渡した。この部屋にも暖炉の側に置いてある。これがどうかしたのだろうか?
「誘眠ガスを入れてあげるからもう少し眠りなさい。今はとにかく怪我を治すのが先決なのだよ」
ハリー教授は機械の調子を確認し、点滴チューブ内の薬を調整すると、クーイに毛布をかけ直し、パージェに軽く会釈をして去っていった。
誰も見ていない廊下まで来て教授は立ち止まった。深く長く溜め息をつく。やがて何事も無かったかのような表情を作ると、階段を降りた。
教授が去った後、取り残されたパージェは呆然と閉まった扉を見つめ、そしてベッドの少年に目を移した。眠り薬が回ってきたのか、うっすらと開いていた目は再び閉じられようとしている。しかし微かに指先が何かを探し求めていた。
「……?」
パージェはおずおずと近付いてチューブの下を覗き込んだ。ぱっと彼の目が開き、すぐに押し寄せる睡魔と闘って瞼が揺れる。指先がまた動いた。繋がれたままの不自由な状態で、シーツを、毛布を探っている。彼女はチューブに耳を寄せてみた。しかし聞こえてくるのは誘眠ガスのシューという微かな音だけだ。クーイは再び意識を失おうとしていた。
冷たい指先が触れてはっと下を向いた。知らず知らずのうちに彼の指に手を添えていたのだ。指はほんの数秒逃げたそうな素振りを見せたが、すぐにぐったりと脱力した。パージェは動かなくなった彼の指を握った。年齢の割にゴツゴツと不格好なその手を見て、なんて綺麗な手なんだろうと呟いた。そして思い出した。隠し通路の中で光る苔に照らされた彼を見て同じことを感じた。つるんとした滑らかな頬が、大理石の彫像のように綺麗だった。
パージェは自分の手をまざまざと見つめた。遠目には分からないが、指先、掌、爪のつけ根、腕に至るまで、皮膚という皮膚は全てびっしりと鳥肌めいたイボに覆われている。顔もそうだ。脚も、身体も。何処に触れてもざらざらしている。
僕は、何て醜いんだろう!
初めてそう感じた。衝撃で頭が眩々する。クーイは生まれながらに絹の衣を纏い、自分はブツブツざらざらした屑織物を纏っているのだ。恥ずかしさに駆られてパージェは少年の側を離れた。廊下へ戻り、置きっ放しのワゴンと水瓶を自分の部屋へ運び、そのまま風呂に引き籠もった。
彼女はその日、残りの作業を全て放棄した。使用人から報せを受け、やむなくハリー教授は、仕事が終わってから彼女の様子を見に入った。
パージェは全身血だらけだった。水瓶一杯分しか無い水を湯船にあけ、水と湯船とを真っ赤に染めながら「畜生、畜生、畜生!!」と姿見を拳で叩いて喚いていた。
「な、何をなさっておいでですっ」
慌ててハリー教授は軽石とナイフを取り上げた。目の前で彼女の傷がみるみる癒えてゆく。新しく生まれた桃色の皮膚も小さなイボでびっしり埋め尽くされていた。彼女は顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「こんなみっともない自分なんか、大嫌いだ!」
最初ハリー教授はその意味が分からなかった。だが奪い取った道具と癒えてゆく傷を見てやがて察した。教授は彼女の背にバスタオルを掛け、姿見を示しながら穏やかな声で語りかけた。
「パージェ様、なりたいご自分を強くイメージなさるのですよ。それをお続けになれば、やがてそのようになりましょう。若いうちは誰にでもそうした力が潜在しているのでございます」
「……いつか……」
パージェはぐしゃぐしゃになった顔を上げ、姿見を見た。
「僕のこのブツブツも、いつか消せるの……かい?」
「左様でございます」
「いつ、消せる?」
「はっきりとは申し上げられませんが、ある日ふとお気が付かれた時には無くなっておりますよ」
答えを聞いて、ゆっくりと彼女の表情が落ち着いた。パージェは姿見の前に立ち、左腕に最後に残る傷がゆるゆる消えてゆくのを見つめた。
教授は思わず眉をあげた。最初に離れに運び込まれた時の痩せ細った印象はもう過去のものだった。痛々しく骨が浮いていた部分に肉が付き、背もかなり伸びた。今は少なくとも十歳児くらいには見える。冬の盛りを迎える頃には、年齢相応の外見を取り戻すのではないだろうか。
しまった。彼女は十三歳のしかも両性だ。これは先に羞恥心と言うものを教えておかなければならない。今のように全裸を人目に晒して平気でいられては大変困る。だが羞恥心など幼い頃から親が教えるものなのではあるまいか。少なくとも術医学施設ではそんな授業は行われていないし、自分が担当した経験も勿論無い。家ではどうしていたかと言うと、そういう類いの躾は殆ど妻に任せっきりだった。
どうしたものか。教授は腕組みをして考え込んだが、途方に暮れるばかりだ。仕方がない、せめて浴衣の使い方だけでも覚えて頂かねば。
ハリー教授は大袈裟なくらいに勇気をふり絞ると、以前息子が彼女に教えようとしたのと全く同じ順番で、全く同じ内容を口にした。
そしてパージェも、あの時と全く同じように姿見にひたすら目を奪われ、教授の話には全く関心を向けていなかった。
「雪、やまないねえ」
空を見上げて、使用人たちは口々に呟くとため息をついた。新米侍女のミリイにとっては初めての冬越しだ。毎日の雑用に除雪作業が加わる、忙しい毎日。炉を傷めてしまわないように、無人の部屋にも火を入れ、全員が摂り終えるまで食事は何度も温め返す。
「こんなに沢山の雪、見たことないわ」
ミリイは仕事の手を止めて窓の外を見つめた。
「この辺は山がちだし、標高も高いからねえ。もうちょっと山の方に行くと、こんなべたべたした雪じゃなくて、さらさらした粉雪に変わるんだよ。『山の民』の集落なんかは粉雪だね」
「『山の民』の集落があるんですか?」
ミリイの脳裏に、レアンの顔が浮かんだ。レアンとはあれから一度も会っていない。レアンは何時休暇を取るのだろう。自分とシフトが近ければ会いに行けるかも知れない。いや、シフトがどうであれ、家族を訪ねれば最近の彼の様子など聞けるかも知れない。
ミリイは興味津々に先輩侍女から『山の民』の集落の話を聞いた。
休暇が取れたら、行ってみよう。うまくすれば、レアンに会えるかも知れない。




