百人一首は来る者を拒まない
先生生徒と立場は違えど、もし前世が存在するなら同じ星に住んでいたはずだと感じるほど、雪菜は山本先生と会話の呼吸が合った。掃除をはじめて一週間が経つ頃には礼節を弁えながらも砕けた言葉が出るようになっていた。
放課後雪菜は指導室のドアをノックした。いつもなら「どうぞ」や「はーい」と明るい声が返ってくる。しかしこの日は返事がなかった。戸に耳を寄せたが返事どころか音さえしない。そろりとのぞくと指導室はもぬけの殻だった。
「また職員室に行ってるのかな」とつぶやいて雪菜は教室に入った。
山本先生の椅子にある、犬の顔の円座クッションが目についた。ドーナッツみたいに中央が空いている。居残り掃除しますと先生に告げた日から気になっていた。柔らかそうに見えるけれど、百キロ以上ありそうな山本先生が座ってもぺしゃんこにならない。
試しに座ってみると雪菜の想像よりもしっかりした生地だった。座り心地がよく、意識せずとも背筋が伸びるようだ。
「おお、これが噂の高反発か」と聞きかじった言葉を使い、ぴょんぴょん跳ねた。
椅子からだらりと足を投げ出し、ハンディファンで涼んでいると、パーティションの中から何かを引きずる不審な音がした。雪菜が怪しんでいると、如雨露を持った山本先生が現れた。
「ええ……」と絶句した雪菜に先生は軽い口調で言った。
「さて、何からつっこめばいいのかな」
雪菜が掃除を終えて報告すると、
「お疲れさま。そろそろ期末テストだな。勉強のほうは順調か?」
「勉強ですか? あっ、ちょっと聞いてくださいよ。変な宿題が出たんですよ」
雪菜はスクールバッグから一冊の本を取り出した。授業中に配られた『百人一首を覚えよう ~和歌の世界へのご招待~』だ。
一ページにつき一首の構成で、ページ中央には和歌と現代語訳が、下段には出典と語句の解説が載っている。余白が多く勉強しやすそうな作りだ。ところが雪菜には今ひとつ信頼のおけないところがあった。それはあまりに個性的な現代語訳だ。
たとえば二首目の持統天皇の歌、
──春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
の現代語訳はこう書いてある。
(太陽が輝く
山の緑が輝く
真っ白な衣も輝く
ああ! 夏!
ああ! 香具山!)
山本先生に渡すと、先生はぱらぱらめくりながら、
「ああ、百人一首か。たしか二学期にテストあるよな」
「そうなんですよ。印をつけた歌を丸暗記しろと言われまして」
先生は「ん?」と顔を上げて疑わしげに、
「本当に、丸暗記って言われたのか?」
「はい。そう言っていました」
雪菜がためらわずに答えると、
「そうか。最近は趣味で俳句や短歌を作る人も増えているみたいだが、学生時代にしか触れない人がほとんどだろう。今のうちにしっかり勉強しておくといいぞ」
「そもそもの話なんですけど、百人一首なんか覚えて将来何かの役に立つんですかね」
「将来の役に立たないことはやりたくないか?」
「いえ、そういうわけでは。それよりも何ですか……、全然興味がもてなくて」
「そうか」
山本先生はゆっくり立ち上がり、黒板に和歌を書いた。
──秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ
雪菜は子どものころ百人一首かるたで遊び、何度か付属CDを聴いた。小学校でも中学校でも百人一首大会があった。先生の書いた歌は暗唱こそしていないものの、耳が覚えていた。
「言わずと知れた天智天皇の歌だ。さて、まずは前提知識だ。かりほの庵というのは農作業の仮小屋で、苫というのは藁や萱を編んだものだ」
山本先生は「こんな小屋だな」と言いながら黒板に絵を描いた。おそらく「かりほの庵」を描いたつもりなのだろう。しかし雪菜の目には使い古されたとんがり帽子にしか見えなかった。とにかく物知りで威厳と落ち着きを備えている山本先生が小学生みたいな絵を描くのが意外だった。
「それでは訳してくれるか」
「はい。ええと、秋の田の近くに立っている仮小屋の苫の目が粗い……ので? 私の袖が露に濡れ……つづけています?」
「自信をもって答えなさい」
「あ、そうですよね」と雪菜は頭を掻いた。
「直訳といった感じだな。まあいいだろう。これは農作物を鳥獣から守るために晩秋の夜に仮庵で番をする辛さを詠んだ歌なんだ。つまり、冷え冷えとした夜に農作業の疲れからうとうとしていると、袖に露が落ちてふと目が覚める。そんな状況も入れてほしいものだな。『夜露』と訳すだけでも歌が引き締まるぞ。これは経験が物を言うな」
一字添えただけなのに訳の中で漠然としていた「露」が具体的なものに変わった。窮屈な仮庵で膝を立てるように座り睡魔と戦っている番人の姿が目に浮かぶようだ。無機質でしかなかった和歌が息を吹き返したような感動があった。
「天智天皇が農民の辛苦を理解している人徳ある天皇だと宣言している歌だよな。これを一首目に置くとは、選者の藤原定家はしゃれたことをするよなあ」
「先生。なんで詳しいんですか?」
「なんでって私は古典の教師だからな」
「ええっ!」
「そんなに意外か?」
「いえ、生徒指導専門の先生かと思っていたので」
「橘、この歌を読んでどう思った?」
「えっと、そうですね……。まず夜の話であるのにびっくりしました。クラスのみんな知らないと思いますよ。あとテンポがよくて記憶に残りやすい歌ですよね。あ、でも、ひねくれた見方かもしれませんが、天皇って農民の気持ちわかったんですかね?」
「冴えているじゃないか。実はこれ、『万葉集』の歌が基になっているんだ」
山本先生は見比べられるように、天智天皇の歌の隣にもう一首書いた。
──秋田刈る仮庵を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
表現は異なるが内容はほぼ同じだ。
「これ、確実に盗作じゃないですか!」
山本先生は「盗作か」とあきれたように言って、
「本歌の『秋田刈る』『仮庵を作り』は農作業者の視点が色濃いが、天智天皇の歌はそこから少し離れて詠んだように思える。その分晩秋の侘しさが引き立つのだろうな」
「うーん……。そう言われてみればそうなのかなと思います」
「天智天皇は大化の改新で天皇を中心とする律令国家を作った。大規模な改革だったから理想の天皇像であることが必要だったわけだな。この歌に天智天皇の名前がついたのは功績によるものなのか、それとも政治的な狙いがあったのか、どっちだろうな」
「いえ、忖度です」
雪菜のたわむれに先生はめずらしく高く笑った。
「そうかそうか。忖度か」
「あ、でも、大化の改新って中大兄皇子と中臣鎌足ですよね」
「おまえ日本史大丈夫か? 中大兄皇子が即位して天智天皇になったんだろうが」
「えっ、そうなんですか!」
「授業で習っただろう?」
「習ってないと思うんですけど……。でもびっくりですよ。だって私の中では、中大兄皇子の人生は六四五年に始まって六四五年に終わったんですから」
「それしか知らないということかな?」
「はい。そうです」
「橘ほど大げさな反応してくれると教えがいがあるよ」
別れ際、山本先生は黒板の予定表を見て言った。
「ああ、言い忘れるところだった。明日からはテスト期間だから、ここには顔を出さなくていいからな。テスト勉強がんばりなさい」
雪菜は昇降口を出て大きく伸びをした。
毎年この時期になると、ここ姫鵜町ならではの夏の訪れを感じる。潮風、梔子のほかに、海沿いの植林の匂いも混じっていそうだ。雪菜はDNAみたいに複雑にからみ合ったこの香りが好きだった。生徒指導室の掃除をすると決めたときには刺激を求めたけれど、こうして四季や身の回りの景色は毎年同じであってほしいと思う。
楽しい時間を過ごした余韻が残っていた。今にもスキップしそうなほど足取りが軽かった。
山本先生は助動詞がどうとか、活用がどうとか、小難しい話は一切しなかった。背景を教えてくれただけだ。眠気を誘う古典の授業と異なるのはそれだけなのに、和歌の勉強が楽しいと思ったのははじめてだった。
『秋の田のかりほの庵の苫をあらみ』と大化の改新。まったく関係ないと思っていた二つが雪菜の知らないところでつながっていた。正月に百人一首かるたを楽しむ人のうち何パーセントが気づいているのだろう。
雪菜は先生とのやりとりを思い返しながらとりとめもなく考えを巡らせていたが、その思索は海を泳ぐように広がって行った。
これまで自分が見ていたのは世界の表面にしか過ぎず、実際は想像しているよりはるかに深く、知りたいと願った者にだけ真実を語るのだろうか。




