成績表が返ってきた
「今日のセラヴィ、どうだった?」
雪菜はさりげなく訊いたつもりだったが、伊澄は電池が切れたみたいにぴたりと止まり、
「なになに? 急にどうしたの?」とこちらに疑いの目を向けた。
「なんで疑ってるの?」
「いやあ、別に疑ってるわけじゃないよ。あんた、仕事のこと訊くなんてめずらしいじゃない」
「そうかな。いつも訊いてると思うけど」
雪菜がとぼけてみせると、
「うーん、そうねえ……。どう? って言われても普通かな。あ、でも、来週は体験の生徒さん多いから遅くなるかも。先にごはん食べてていいからね」
「ううん。お母さん帰ってくるまで待ってるから一緒に食べようよ」
「そう? ありがとう」と伊澄は照れくさそうに目をそらした。
セラヴィは母の主宰する料理教室だ。
伊澄は疲れた顔をしているけれど、普段は涼しげな眼差しにも今日は温かみがあり、声も明るい。あとは言うタイミングだけかと雪菜はそろばんをはじいた。
ルッコラのイタリアンサラダをつまみにワインを飲んでいた伊澄がメインの魚に箸を入れたのは食事が始まって十分ほど経ってからだった。
ほじった身を口に放り込み、舌先で奥歯を探るような神妙な顔をしたけれど何も言わず、今度は新たにつまんだ身を煮汁に泳がせてもう一口食べた。
「どう?」
「おいしいよ。特にこのスープが絶妙ね。オリーブオイルと白ワインとニンニク……それとブラックペッパーも入れた? ホールのやつ」
「さすが〜。よくわかるね」
伊澄は雪菜の使った食材をぴたりと当てる。絶対音感ならぬ絶対食感だと雪菜は感心する。
今夜は「地中海風アクアパッツァ」を作った。旬のイサキを皿の中央にでんと置き、アサリやミニトマトなど脇役はなわばりを持つかのように散らし、ぜいたくに琥珀色の煮汁を垂らした。
「あら、ホタテも入れたのねえ」
「うん。三十パーセント引きで卵巣もついてたから」
母はこれ、これと箸で柿色の部分を指しながら、
「よく卵巣って知ってるねえ」
「お店の人に訊いたら教えてくれた」
「へえ。雪菜くらいの年の子は恥ずかしがって訊かないものだけど、あんた、昔から人見知りしないものね。本当に便利な性格よね」と母はからかうように言った。
この日、雪菜の目にも伊澄のお酒が進んでいるのは明らかだった。料理を口に運んでいる時でさえワイングラスのプレートに手を添え、ボトルに水滴がつく頃にはすっかり上機嫌になっていた。
今回は見逃してもらえるかもしれない。不安から期待へとベクトルが変わった。夕食が始まってから心の内を悟られまいと気張っていただけに、ひとたび波風が立つと、一刻も早く結果を知りたい気持ちに急かされ、落ち着かなくなった。雪菜は背に忍ばせていた成績表に手をかけ、勢いよく立ち上がった。
「ちょっと話があるの。二年になってからその……。授業についていくのが大変で」
料理をまたいで差し出すと、母は自然に手が出たという風に受け取って、
「成績表?」
「うん。中間テストの」
「ああ」とすぐわかったようだが、興味なさそうに横に置いた。
待たされるのはもうたくさんだ。たまらず雪菜が急かすと、
「いま食べてるのに~」と母はため息まじりに成績表を開いた。
こそこそ顔色をうかがっていた雪菜は伊澄の視線が成績表に落ちたとたん、これまでの貯金を使い果たすかのように凝視した。
母の目は最初こそ迷子になっていたけれど、見る場所が定まったらしく、なぞるようにして横に動き始めた。
雪菜は祈るように審判の時を待った。
視線が総合順位あたりに行くと、ぎゅっと眉根が寄り、母は入国審査官に負けず劣らずの険しい顔になった。勢いで乗り切ろうとした雪菜の気持ちはへなへなとしぼんでしまった。
「すごい成績ねえ。三一六人中の二七〇位……。こんな成績見たことないよ」
雪菜は悪さをした猫のように肩をすくめた。
「高校の授業はやっぱり難しい?」
「うん……」
「平均点を下回ってるのがたくさんあるけど今は置いとくよ。でも何よ、この古典。もう一問間違えたら赤点じゃない」
「まじめに授業受けてたし、きちんと試験勉強もしたんだよ。でも、よくわからなくて」
「わからないなら質問しなさいよ。先生はそのためにいるんだから」
「ちゃんと質問したよ。でもね、『あはれ』とか、『をかし』とか、風流とか言われても、何それって感じだし、助動詞なんてほんとひどくてね、十個くらい意味を持ってそうなやつもあるんだよ」
「持ってそう、って何よ。はっきりなさい」
「持ってるって意味。言い間違えたの。質問しても『まずは単語と助動詞覚えなさい』で終わっちゃうし、どこがわからないのかうまく言葉にできなくて」
「ふ~ん。基本から復習しなきゃいけないんじゃないの?」
「たぶん……」
「私も苦手だったから気持ちはわかるけどね。前から言ってるとおり、留年したら自分で学費出してもらうからね」
伊澄は雪菜に成績表を返し、何事もなかったようにワインを注いだ。
「……怒らないの?」
「ん?」
「自分で言うのもなんだけど、こんなひどい成績だったのに……」
「私たちの子なんだから、勉強については期待してないわよ。あんた、小学生の──たしか高学年だったかしらね、じっとニュースを見ながら『この町、いつも事故が起きてる』って言ったの。もちろん初めて聞く地名よ。そしたら『なんでわからないの? またアイツイで事故が起きたんだよ』って言うじゃない。それだけで吹き出しそうだったんだけど、まるで古畑や金田一君みたいにふんふん息巻いてるんだもの。ほんとおかしいったらありゃしない」
けらけら笑う母を見て、雪菜は窮地を脱したのを確信した。
「お母さん。忘れた頃に思い出させるのやめてよ」と口をとがらせた。
夕食後、雪菜は十七歳の誕生日を祝ってもらった。雪菜はショートケーキを、伊澄はモンブランを食べた。
母はパティスリー店員の文句を言ったり、雪菜に「やっぱり苺は最後に食べるの?」と訊いたりした。お酒に酔って饒舌になったいつもの母だ。
「でも怒られなくてよかった~」
「ん? ああ、成績のこと?」
「うん」
「心配だったの?」
「そりゃあそうだよ。『ボヘミアン・ラプソディー』にさあ、お母さん、僕、人殺しちゃったよ……、みたいな歌詞あるじゃん? 私、本当にとんでもないことしちゃったんだなって、心の底から共感できたくらいだもん」
「あんたはほんと大げさねえ」と伊澄は小さく笑って、
「まあ本心を言うと、将来は自分の足で歩ける人間になってほしいよ。でも、何でもできちゃう子ってのも親からしたら複雑なものでね、ちょっとくらい困らせてくれる方がいいの。あんたは大きな間違いを犯さず、優しい子に育ってくれたよ」
「優しいかなあ」
「優しいよ。変な髪だけどね」
「もう! 真剣に訊いてるのに」
「ごめんごめん。感謝してるのよ? セラヴィ始めたころ、『明日から私が夕食作るから』って言ってくれたじゃない? 私に相談もせず、あんだけ一生懸命やってた部活も辞めてさ、一日も欠かさずやってくれてるでしょ。ほんと助かってるのよ」
あの日の母の姿が浮かんだ。深夜に一人コンビニ弁当を食べていた。「まだ起きてたの?」と言った母の目、乾ききった鮭の色、部屋に満ちていた化学的なにおいだけはいまだに鮮度を保ち、雪菜の脳裏に入れ墨のごとく焼きついている。
「お母さんの力になりたかったから」
「ありがとうね。高校生で買い物行って料理できるだけでもすごいんだから。苦手なことはない方がいいんだろうけど、焦る必要はないんじゃない? 今のペースでいいからゆっくり大人になりなさいね。もし雪菜が急に大人になって目の前に現れたら……。ふふふ。どう思うんだろうねえ」




