生徒指導室のルール
ウェブで見つけた性格診断テストでも、友人のタロット占いでも、雪菜はある長所を指摘された。それは切り替えの早さである。心当たりがあった。喜怒哀楽のうち一番強い感情は怒りだと考えている。ところが、その怒りでさえ一晩寝ればどうでもよくなってしまう。母と喧嘩してもう絶対に口をきいてやんないと息巻いても、翌朝には自分からあいさつする。高校生になってもその性分は変わらないらしい。居残り掃除をやると決めてからは一度も迷わなかった。週明けの朝には「今日から掃除がんばるぞ!」と前向きになったくらいだ。
放課後指導室の戸を引くと、山本先生はパソコンから目を離し、くるりと椅子を回した。
「よく来たな。どうするか決めたか?」
「はい。私、指導室の掃除しようと思います。よろしくお願いします」
「そうか」
先生は腕を組み、のぞきこむように雪菜を見たが、ふっと表情をほどいて、
「すっきりした顔になったな」
「はい。どっちにするのかずっと考えたんですよ。こんなに頭を使ったのははじめてかもしれません」
「納得できたのならよかった。なぜ遅刻してはいけないのかについても考えてみたか?」
指導室に通うか否かにとらわれ、山本先生に言われるまですっかり忘れていた。
「いえ、それはまだ答えが出ていないんです。掃除しながら考えたいと思っていますが、それでは遅いですか?」
「そんなつもりで言ったわけじゃない。自分で感じ、考え、答えを出し、行動に移す――このプロセスが大事だからな。期限は決めない。試験じゃないのだからたっぷり時間を使いなさい。だが、もし答えが見つかった時には聞かせてくれるか?」
「はい。わかりました」
「では十分だけでいいから掃除しなさい。用具はそこのロッカーに入っている」
「どこを掃除したらいいですか?」
山本先生は立ち上がって教室を見回した。やがて廊下側を指差して言った。
「それじゃあ、今日は高窓をしてもらおうか」
雪菜はバケツに水を汲んで教室に戻った。
ドア近くに六人がけの机がある。そのパイプ椅子を移動しようとしたら、先生は「ちょっと待て」と制止し、教室隅の木椅子を渡した。
「私は職員室に行ってくる。十分ほどで戻る」と言い残し、山本先生は指導室から出て行った。
独りになった雪菜は教室を見回した。左奥はアイボリーのパーティションで仕切られているので中の様子はわからなかったが、右奥のデスクには折り畳まれたノートパソコンと花瓶があり、白のプルメリアが数輪挿してあった。壁には授業で使っているものよりもひと回り小さい黒板がかかっていた。黒板の左半分は月間予定表で、「創立記念日」「職員会議」など印字されたような字で書かれている。右半分は端に数枚のプリントが留めてあるだけだった。デスクを除けば私物らしきものは見当たらない。ここは山本先生専用の部屋だろうか。
雪菜はさっそく椅子にのぼってサッシを拭いた。二、三拭きで雑巾に汚れの筋がついた。学期末くらいにしか掃除していなさそうだ。雑巾が通ると窓が新品のガラスのように透き通っていく。
放課後の学校はやはり静かだった。この生徒指導室と職員室にしか人がいなさそうだ。聞こえてくるのはカラスの声やトラックの過ぎ去る音くらいである。
「あれ? うちの高校には吹奏楽部はないのかな」とか、
「運動部のかけ声くらい聞こえてきそうなものなのに」と雑念まみれだった雪菜でも、いつしか思考も音も失うほど無心で雑巾をかけていた。
山本先生は十分ほどで戻ってきた。
後片づけを済ませ、仕事中の先生に声をかけると、
「お疲れさま。少し話をしようか」
「はあ。話ですか」
山本先生は軽くうなずいた。
「橘には一生付き合っていきたい友達はいるか?」
急な質問におどろきつつも、
「今ぱっと頭に浮かんだのは一人だけですがいます」
「どんな友達だ?」
「小学校からずっと一緒の子ですよ。でも気まぐれな人なので、どこかに行っちゃうかもしれませんけど」
「これは正解である必要はないからな。橘なりの意見でいい。卒業したらそれっきりという友達と、卒業後も付き合いがある友達、一体何が違うと思う?」
「違いですか。そうですね……」
雪菜は思案顔のまま、先生から視線を外した。
頭に浮かんだのは中学のころ行動を共にした友の顔だった。卒業式の日「私たち一生友達だからね」と誓いを立てたのに、数回のやり取りを経てあっさり関係が途絶えた心愛。恋人ができて中学時代をなかったことにしようとしているのか、ショッピングモールで会ったとき露骨に無視した和奏。これで彼女たちとのつながりがなくなったとわかっても寂しいと感じなかった。
「学校という箱庭の中だけの関係か、本当の友達かですよ」
「おもしろい例えだなあ」
「先生はどう思われるんですか?」
「私か? そうだなあ。やっぱり時間じゃないかなあ」
「はあ。また時間ですか。金曜日も時間の話していましたね」
「時間は物の形を変えるからな」
意図がつかめず雪菜が困り顔をしていると、
「さすがに『因果応報』という言葉は知っているよな?」
「はい。きちんと勉強したら良い点数がとれるけど、しなかったら赤点をとってしまう、みたいな意味ですよね」
「間違いとは言い切れないが、実際にはもっと深い意味があると私は思う。では一緒に考えてみようか。想像しながら聞いてくれ」
「わかりました」
「放課後橘が歩いていると、横断歩道を渡ろうとしているおばあちゃんがいた。おばあちゃんは大きな荷物を担いでいて、見るからに重そうだ。通行人は他にもいたが、皆見て見ぬふりをしている。不憫に感じた橘は、代わりに運びましょうかと声をかけた。横断歩道を渡り終えて荷物を返したら、おばあちゃんはどんな反応をするだろう?」
「反応ですか……。重いか重くないかにかかわらず荷物を運んだわけですから、お礼を言うと思います」
「そうだな。おばあちゃんは『ご親切にどうも。本当にありがとうね』と深々と頭を下げるかもしれないな。さてお礼を言われた橘は気分が良くなった。余韻に浸りながら帰宅すると、お母さんが台所で料理をしていた。橘はめずらしく『何か手伝おうか?』と声をかけた。するとお母さんはどんな反応をするだろう?」
山本先生は雪菜が夕食を作っているのを知るはずもない。質問の狙いは別にあるのだろう。もし父が生きていたらと仮定して答えた。
「そうですね……。母は一瞬ぽかんとすると思いますが、恥ずかしがり屋のところがあるので、うつむきながら『ありがとう……』と言うと思います。あ、でも、私も恥ずかしくなって、二人とも目を合わせずシーンとなりながら料理するかもしれません」
「えらい具体的だなあ」と先生は感心したように言って、
「橘はこう思うかもしれない。今日は二つの『ありがとう』を聞いたが、どうやらその意味は同じではないらしい。はじめて会ったおばあちゃんに言われたらほっこりしたが、毎日顔を合わせている家族に言われると、照れくさくて顔も上げられないぞ、と。まるで自分の体の中で何らかの化学反応が起こっているようだ。橘のした小さな親切が『ありがとう』にもいろんな顔があるのではと考察する時間に変わった」
「なんだか神秘的ですね。だって、おばあちゃんの荷物を運ばなければ、そんなこと気づきませんよ」
「神秘的か。なるほどな」と先生はあらぬ方を見たが、うんうんとうなずいて、
「ではこんな風に考えてみたらどうだろうか。原因があるから結果が生まれた、という原理があるとしたら。その結果が今度は原因となって次へとつながっていくとしたら。これを拡張すると、次のように言えそうだ。現在の私たちを作っているのは今までどんな行動をしたか、つまりどんな時間を過ごしたかの積み重ねらしい、と。どうだ? それでもまだ神秘的に感じるか?」
「いえ、そう言われてみると、運動会のリレーみたいですよね。起こるべくして起こったようにも思います。でもびっくりしました。『因果応報』にも思っていた以上に深い意味があるんですね。過去の行動がめぐりめぐって返ってくる、そのままの形で戻ってくるとは限らないというわけですね」
「どこまで理解しているか自分の言葉で伝えられるのは橘の良いところだな。私としても安心して会話ができる。さて話を戻そう。橘はさっき『箱庭』という表現を使ったよな。私は言い得て妙だと思うんだ。学校という強制的な社会でつながっている時には友人が悩んでいたら迷わず耳を傾けるだろう。しかし、卒業後は自分で取捨選択しなければならない。つまりだ、関係が続くのも終わるのも因果応報というわけだな」
「先生。それわかります! 私、中学のころ仲良し四人組で行動していたんですけど、今でもつながりあるのはさっき言った一人だけなんですよ。あの……迷ったのですが、ざっくばらんに言ってもいいですか?」
「もちろんだ」と先生は即答したが、思い出したように手を打って、
「そうだ。ここでの約束事を決めよう。ここでは何を言ってもいいし、何を訊いてもいい。プライベートな内容は答えられない場合もあるかもしれないけどな。せっかくここに来たのに、私に気を遣って会話を合わせるだけじゃ、それこそ時間の無駄というものだろう。遠慮しなくていいからな」
「はい、わかりました。先生。私は離れていく人に対してしがみつくつもりはないんですよね。だってどうにもならないじゃないですか。そんな無駄な労力使うくらいなら今つながっている人を大事にしたり、新しい友達作ったほうがいいと思ってしまいます」
「無駄か」と先生は失笑して、
「ずいぶんと現実的な考え方をするんだな。人は話してみないとわからないものだなあ。橘はまだ若い。これからいろんな経験をして、そのたびに考えを変えることだってできるだろう。私の場合、一時的に切れてもそれで終わりというわけではなく、長い時間を経てまたつながった不思議な縁もあった。私たちは顔も忘れるくらいたくさんの人と出会い、しかるべき時間が来たら離れていく。最後まで残った友人が二、三人だとしたら少ないと思うか?」
「はい。思います。それだけしかいなかったら人生寂しいですよ」
「しかし、この数もまた不思議なものでな。そのときそのときで表情が変わるんだな。さっきの『ありがとう』みたいにな。実はその二、三人という数字は今の私が友人と呼べる数なんだ。それでも私はこう思う。私は恵まれていると」
「山本先生はお友達との関係が深そうですね。私は深く考えず友達になっちゃうので、もっと真剣に選ばなきゃだめってことですかね」
「何を言う。私の場合はそうだったと言ったろう。橘には橘だけの答えがある」
「私だけの……答えですか」
「心配そうな顔するんじゃない。頭でぱっと考えて答えが出る簡単な問題ではないからゆっくり考えなさい」
これまで雪菜は教師と話す際、一方的に答えを教えられるだけだった。理解に至らなくとも訊き直さず、早く終わってくれと期待されているであろう返事だけをした。そんな雪菜にとって、きちんと踊り場を用意し、対話から答えを探っていく山本先生の進め方は新鮮なものに見えた。
そしてこの日以降、雪菜は掃除のあと山本先生と話をするようになった。




