時間は平等じゃない
翌日はさすがに遅刻しなかったが、朝から気が重かった。早く山本先生に謝って楽になりたかった。先生が生徒の遅刻でビジネスしているやら、これは大義ある抵抗だやら、悪魔のささやきに耳を貸した自分が憎い。
一方で迷いもあった。雪菜が気の強い性格だったら、
「たしかに何も言わずに帰ったのは悪いと思います。でも何の説明もなしに掃除を押しつけた先生にも問題ありますよ」と言えるだろう。しかし、角が立つ言い方は自分には合わない。それなら韮が奥歯に詰まったようなこの異物感に気づかぬふりをして謝るのがいいのか。いや、それは違う、と雪菜は思う。間に合わせの仮面をかぶるのは問題を先送りしている気がしてならない。納得できないならきちんと意思表示するべきでした、今もまだ迷っています、と反省した態度を示す方がよさそうだ。順序立てて考えたのに、この迷いは気まぐれに跳ねる鯔のように、唐突に出ては一旦おさまるを繰り返した。
放課後、警察に出頭する心地で指導室に向かった。
息を整えてノックすると、中から「どうぞ!」と地鳴りのような声が返ってきた。雪菜は怯んだが、これは身から出た錆だと口を結んで戸を引いた。
教室奥のデスクに山本先生がいた。背中に鉄でも入っているかのようにぴんと背を伸ばし、気難しそうな顔でノートパソコンを見ていた。教室には山本先生しかいなかった。
「失礼します」
雪菜が敷居をまたぐと先生は
「おお。やっと来たな」と立ち上がった。
叱られる覚悟でここに来たのに、先生は昨日とは打って変わって、桜餅みたいな柔らかい顔になった。
雪菜はその落差にぽかんとしたが、先生の機嫌が変わらないうちに謝った方がいいと思い立つと口が回り始めた。
「山本先生、昨日は納得できなくて帰ってしまいました。身勝手な行動でいろんな人に迷惑をかけてしまい、その、すみませんでした」
先生の豊かな表情から余計なものがさっと蒸発し、能面みたいな顔になった。
「そうか。何が納得できなかったんだ?」
「遅刻がいけないことだとわかっています。でも当たり前すぎて何がいけないのかわからなくなりまして……。遅刻はその……、居残り掃除しなければならないほど悪いことなのでしょうか。考え始めたら頭がぐるぐる回って答えが出なかったんです」
先生は雪菜が言い淀んでも口をはさまず聞いていた。雪菜の目には昨日と変わらぬ威圧感があったけれども、今回はきちんと向き合ってくれそうな気がした。
「その答えがわからないのに、自分の気持ちを押さえつけて、生徒指導室の掃除をするなんて、おかしいじゃないですか」
山本先生は眉を動かさずに言った。
「そうだな」
「規則だからとか、社会のルールだからとか、それくらいの理由しか思い浮かばなくて」
「本当にそれだけかあ?」と先生は試すような訊き方をした。
「いえ。ほかにもいろいろ考えたんです。社会人になったら、遅刻した分の給料はもらえないのかなとか、査定にも響くのかなとか。あっ、それに、自己管理ができない大人になってはいけないと、現代文の府川先生も、倫理の小早川先生も言っていましたよ」
「そうだな。それも一理ある」
「当たり前すぎて、なぜかって訊かれると難しいんです」
「なるほどな。では橘はその答えで納得できたのか?」
「納得は……できませんでした」
山本先生はガクッと力が抜けたような反応をして、
「できなかったのか」とあきれた様子だったが、
「私も昔、橘と同じように悩んだものだ。思いつきや先生が言ったからではなく、自分が納得できる答えを探しなさい」
「わかりました」
山本先生はドアの前に立っていた雪菜を中に招いた。先生が座ると椅子が軋んだ。
「私たちは生まれてすぐそれぞれの時間を与えられる。時間は平等じゃない。橘が宝くじに当たろうが、どこかの王妃になろうが不変のものなんだ。つまり、橘に与えられた、橘だけの時間というわけだな。だからこそ、今の一分一秒の意味をじっくり考えたいものだよなあ」
「平等じゃないというのにはびっくりしましたけど、先生のおっしゃっることはわかります」
「橘の両親はどちらも働いているのか?」
「父はいないんですけど、母は毎日元気にサービス残業しています」
山本先生はつっと顔を曇らせて、雪の積もった田んぼのような深い声で、
「すまなかった。知らなかったとは言え、失礼した」
「いえ、父の記憶はほとんどないので。気にしないで下さい」
このとき山本先生は座り、雪菜は立っていた。この角度から先生を見るのははじめてだ。先生は高い鼻をしているが、目は充血し、耳のそばに十円玉そっくりのしみがあった。その跡に雪菜は不思議とくつろいだ。
「橘はさっき、遅刻はいけないと思う、それはわかっている、と言ったよな。それなのに、残業はしてもいいのか?」
「そう言われてみれば……。変ですよね。でもみんながやっているのに、自分だけやりませんと断るのは有りなんでしょうかね。わがままに思えます。新人の頃はいびられるものでしょうし、簡単に断るのは難しいですよ」
「それでは周りが残業していたら橘も残業するのか?」
「いえ、そう言われたら、しますとは言いにくいんですけど。まだ働いたことないからわからないですよ」
「そうだったな。私は遅刻する人も残業する人も、時間にルーズだと思うぞ。何も考えず周りに流されるのは楽だが、橘が大人になって上から命令されるたび、『仕方ない』で済ませる単純な人間になってほしくないんだ」
「はい。わかりました」
「できそうか?」
「しっかり考えてみます」
会話が一段落してから先生は言った。
「よし。橘、こうしよう。今日はちょうど金曜日だ。おまえが週末をどう過ごしているか知らないが、考える時間くらいは作れるだろう。来週からここに来るか来ないか、自分で決めなさい。私は怒っていないし、おまえを見捨てたわけでもない。どちらの答えを出しても他の生徒と同じ態度で接すると約束する。こうして呼び出したのは、橘を見ていたら危なっかしかった頃の自分を思い出してな、私なら伝えられる言葉があると思ったからなんだ。しっかり考えて自分で判断しなさい」
思わぬ提案に雪菜が言葉を失っていると、
「どうした? そんな顔して」
「あの、本当にいいんですか? 私が決めても」
山本先生は柔和な目で言った。
「ああ。自分で納得できる答えを出しなさい」




