届かぬ思い
美月と別れ、スーパーに寄ってから帰宅した。
上がり框に座って靴を脱いでいると、リビングから伊澄が出てきた。
「この時間にいるなんてめずらしいね」
伊澄はそれには答えず、雪菜を見下ろし、握りしめた土を投げつけるような口調で言った。
「なんで勝手に帰ってきたの?」
「なんでって、学校終わったからだけど」
「山本先生と約束があったんでしょ?」
「えっ! どうして知ってるの?」
「学校から電話があったよ」
山本先生がそこまでしたのに面食らいながらも、
「一方的に居残り掃除しろって言われただけだよ」
「山本先生がそう言ったの?」
「そうだよ! パワハラじゃん。黙って従うなんて変じゃん」
しかし伊澄は「パワハラって」と鼻で笑って、
「あんたが五十回も遅刻したからでしょう。二か月ずっと遅刻したってことじゃない! 朝ドラしっかり見て学校に行ってるからおかしいなとは思ってたけど、そんなに遅刻してるとは思わなかったよ」
「それ嘘だよ。五十回もしてないもん」
「そうなの? 何回なの?」
「……四十回」
「えっ?」
伊澄の怒声が玄関に響いた。雪菜は電気でも走ったかのように身を引いた。
母は軽度の難聴なのだ。機嫌が悪いときにはこう逆なでする訊き方もめずらしくない。さっきからおざなりにしか話を聞いてくれず、はなから雪菜が悪いと決めつけていそうだ。
雪菜は自分の部屋に土足で入ってきた人を押し返すように、
「四十回だってば!」
「変わらないでしょ!」
「ちょっと待って。こっちが納得してないのにさ、無理矢理掃除させるのっておかしくない?」
「あんたは山本先生に納得できないって伝えたのね? そう伝えたのに先生はうちに電話してきたってことね? それなら私今から抗議する!」
「そうじゃないってば! 落ち着いて聞いてよ」
「落ち着いてるよ」
「それじゃあ本当のこと言うよ。先生はあんな調子だから、どうせ説明しても伝わらないし、何も言わずに帰ってきた」
「それはずるいんじゃない?」
伊澄は狐のような目になった。
「成績についてとやかく言うつもりはないよ。きちんと卒業できればそれでいい。勉強は得意な人もいれば苦手な人もいる。要領の差もあるからね。私はそれと頭の良し悪しとは別だと思ってる。でも今の雪菜は自分をだます方法を見つけただけだよね。それって本当に頭の悪い人のすることじゃないの?」
「お母さんの言いたいことはわかってるよ」
「わかってないよ!」
「これでも自分では考えてるつもりなのに」
「あのねえ。今はまだ私だけじゃなく学校の先生も口うるさいくらい言うでしょうよ。でもね、大人になったらもう誰も言ってくれなくなるんだよ? あいつは言い訳ばかり、文句ばかりって陰で冷たく笑われるだけなの。そんな人間になっていいの?」
「お母さん誤解してる。もう一回ちゃんと説明させて」
伊澄はため息をついて言った。
「じゃあ説明してごらん」
「うんとね、知ってると思うけど、私今日遅刻したんだよ。そしたら山本先生が昨日も遅刻したのかって言うから、昨日はしてませんて答えたの。だって濡れ衣だもん。結局その誤解は解けたんだけど、先生が遅刻した分だけ、あっ、違う。その前に何回遅刻したか聞かれたんだった。でもありえない数だったの! 先生ずっと私のこと睨んでたから、実際より大きな数言ったんだと思う。それで私はそんなに遅刻してませんって反論したら、居残り掃除しろって命令するんだよ。あ、伝わってる? 居残り掃除てのは一日だけじゃなく遅刻した回数だけね。これはさすがにパワハラじゃん! だから私――」
「何言ってるのかわからないからもういい! 明日山本先生のところに行って、不満があるならきちんと話してきなさい! いいね?」と有無を言わさぬ口調で迫った。
この日伊澄の機嫌は直らなかった。母の味噌汁には特別に雪菜のより葱を多く入れてあげたのに気づいてなさそうだった。そればかりか、食事を楽しむのを拒むかのように口をへの字に曲げ、雪菜とは目も合わせない。
一日汗水垂らして働き、せっかくの息抜きの時間だ。雪菜は申し訳なく思った。
夕食だけは雪菜が担当しているとはいえ、それ以外の家事は全て伊澄がこなしている。つまり、伊澄は父親の責任と母親の責任を同時に果たしていると言える。今日だって学校から連絡があったから同僚に任せて急いで帰宅したのだろうと雪菜は薄々感づいている。大変なのに不平一つ漏らさない伊澄の大きな背中を見ると、ぐいぐい引っ張ってくれるような、いつかは壊れてしまいそうな、矛盾した気持ちが交錯するのだ。
さっきは言い訳を重ねたけれども、こう問題が大きくなってしまったのは自分の軽はずみな行動が原因だったと雪菜は反省している。こんなとき、どの言葉を使えばいいのかもわかっている。それでも言葉を飲み込んでしまった。せめてその代わりにと伊澄の好きなモジリアーニの話題で機嫌を取ろうとしたが返事はなかった。聞こえなかったのかともう一度訊くと「そんなに好きなら勝手に見ればいいでしょ!」と投げやりな反応があるだけだった。




