二人の差
雪菜は裏門を出て向かいの児童公園に入った。遊具と言えば滑り台と砂場だけの寂れた公園である。
公園奥の東屋に親友の神岡美月がいた。L字ベンチの先に腰かけ、引き裂かんばかりの気迫で本を読んでいる。葡萄酒色の眼鏡フレームの一点が日光を吸い、鋭く光っている。しかしシュシュだけは鬼気迫る様子から取り残され、今日も肉まんのように見えた。
雪菜は自転車から降り、忍び足で近づいた。
「わっ!」
「わ、びっくりした」
「驚いた?」
「もうやめてよ~。あ、心臓止まった、って思ったじゃん」と美月はわざとらしくベンチに倒れたが、やがて体を起こして、
「ところで掃除どうだった? しっかりしぼられた?」
「ううん。逃げてきた」
「あの極道みたいな先生だよね。大丈夫?」
「うん。生徒指導の先生って忙しそうだし、明日になれば私に言ったの忘れてそうじゃない?」
「ああ。居残り掃除しろって言ったのはその場の勢いだったみたいな?」
「そうそう」
「あいかわらず大胆だねえ」と美月は文庫本にしおりをはさんで、
「でもさあ、雪菜んちから学校まで五分もかからないじゃん。なんで遅刻するの?」
「いや、もっとかかるって。それにね、近いのに遅刻するんじゃないよ。近いから遅刻しちゃうんだよ。ディズニーランドの隣に住んでいる人は一年に何回もミッキーに会いに行かないでしょ?」
「それとこれは話が違うよ」
「遅刻するのはね、距離じゃなくて性格の問題だから」
「今言ったのだけでも矛盾してるし。それじゃあ結局雪菜が悪いんじゃん」
余計なところはよく聞いているなと雪菜は小石を蹴った。
「今ふと思ったんだけど、」と美月はつぶやくように言って、
「うちの学校って変なところない?」
「変なところ?」
「遅刻に対してはさ、生徒指導の先生たち総出でチェックするほど厳しいのに、派手な髪型の人には全然注意しないじゃん」
「たしかに!」
「なんか裏がありそう」
「裏って?」
「たとえばさ、髪染めてる人の中に大物政治家の御曹司がいてさ、公務員風情じゃ手出せないみたいな」
「ああ……」
「何そのあいまいな返事」
「いやあ、美月って突拍子もないこと言うけど、よく当たるじゃん。だから、それは行き過ぎだよとは言いにくいんだよ」
美月は「よいしょ!」とスクールバッグを自転車のかごに入れた。
美月は雪菜より十センチほど高い。雪菜は彼女を見上げて、
「それにしても暇だね。何かいいこと起きないかなあ」
「またそのセリフ」と美月は笑って、
「私たちはさ、悲しいかな、モテるタイプじゃないじゃん? 自分から動かなきゃいいこと起こらないよね」
「たしかに。不公平だよね」
「だねえ」
「それにしても、なんでこんなに暑いの?」
雪菜が駄々をこねる子のように言うと、
「だって来週には太陽の南中高度が一番高くなるし」
「そういえばそうだね」
美月は天に祈るように、
「どうか今年の夏は暑くなりませんように」
「今日はどこ行こうか?」
「本屋行っていい?」
「いいよ。何の本買うの?」
「ツァラトゥ、ス……ツ」
「え?」
「発音しにくいんだよ」と美月はむっとした顔で、タイトルを一音ずつ区切るように言った。
「ニーチェの、『ツァラトゥストラはかく語りき』っていう本」
「まじ?」
「何よ」
「ニーチェって哲学でしょ? 難しそう」
「そんなことないよ。めっちゃ楽しいよ。真理に触れて賢くなった気がするもん」
「真理?」
「うん」
「たとえば?」
「そうだなあ。たとえば目の前にリンゴがあって、『このリンゴは何色ですか?』と質問されたとする。雪菜は色に詳しいからわかると思うけど、何色かなんて経験によるものでしょ? 私は紫に近い赤を『赤』だと思って、雪菜はピンクに近い赤を『赤』と思ってるかもしれない」
「うん。そこまではわかる」
「もしそうならさ、二人が『赤』って答えた場合、私と雪菜が見てる世界にはズレがあるってことじゃん」
「私たちの見る景色が同じ色で見えているとは限らないってこと?」
「そうそう。さらにだよ? 色は脳が認識するからその過程で何らかの錯覚があるかもしれない。つまり、リンゴの本当の色と私たちの見てる色も同じとは限らないわけ。赤にしか見えない物体が実は青かったなんてこともあるんだよ。どう? わくわくするでしょ」
「わくわくはしないけど不思議だよね。リンゴかリンゴじゃないかならすぐにわかるのに、色になるとわからなくなるのはおもしろいね」
「ん? どうしてリンゴかどうかならわかるの?」
「食べてみればいいじゃん。リンゴの味がしたらリンゴだし、そうじゃなかったらリンゴじゃないじゃん」
「私、長年の論争に終止符が打たれた瞬間に立ち会えたかもしれない。結論──食べてみればいい! 雪菜すごいよ」
美月と笑い合っているうちに、もやもやした気持ちは薄らいでいた。
「いつから哲学好きになったの?」
「ずっと前から興味あったよ」と美月は涼しい顔で答えた。
それならなぜ今まで話さなかったのか不思議だったが、それを指摘するのは野暮というもの。口をはさまずにいると、
「入門書を読み漁っているうちにどんどん楽しくなってきて、哲学に青春かけてみようかなって思った本はねえ」と美月は腰に手を当てて、
「キルケゴールの『死に至る病』だよ」
「中二病のこと?」
「全然違う。そんな過去、誰にでもあるだろうけど! 雪菜みたいな原始人にはわからないだろうけどねえ、読んだとき魂が震えたんだから」
「パソコンもスマホも使えるから原始人じゃないってば。で、今日はなんて本探すんだっけ?」
「だからニーチェの、タラトゥ、トゥ……」
「なんて?」
美月は目つぶしをするように手を立てた。
「魔王が憑依しこの手指がお前の血を欲している」
「でたっ。中二病!」
雪菜が逃げると、美月は自転車に颯爽と飛び乗り、
「待て。この、赤毛!」と追いかけてきた。
ショッピングモールの本屋に着くと、美月は「ちょっと待っててね」とお目当ての本を探し始めた。
夕方になり混み始めた時間帯だった。雪菜は邪魔にならないように本屋前のベンチで待つことにした。
美月が体をかがめて探しているのをぼんやり眺めていたが、ふとなにげなく、彼女の背中から横顔に視線を滑らせたとき、胸の内に邪な気持ちが巣食っていることに気づいた。
哲学の「て」も知らない雪菜と普段の言葉でさらっと抽象的な話をした美月。
あんなわずかな時間でも差を見せつけるには十分だった。いつも取りとめのない話をして陽気に笑い合っていた美月に出し抜かれたのがおもしろくないのだ。
小さい頃からずっと一緒の彼女にこんな嫉妬に近い感情を抱くのははじめてのことだ。一過性の気の迷いかもしれない。雪菜はそうおさめようともした。ところが、美月が手の届かぬところに行ってしまうという不安も加わると、それは嵐に猛り狂う荒波となって雪菜に迫ってきたのだ。




