パワハラにあらがえ
磯鴫高校は海浜公園の向かいにある。
雪菜の席は窓ぎわだ。授業に飽きたら海を眺める。水平線の先を想像したり、ひっくり返るように転んだサーファーに笑みをもらしたり、大空を自由に舞うウミネコに憧れたり。しかし、この日は違った。放課後のことが気がかりで授業中もうわの空だった。
はじめのうちは何分くらい掃除をやらされるのだろうと指導室に行くのを前提に考えていたが、ダンゴムシみたいに縮こまっていた自分を解放する起死回生の閃きがあったのだ。
たしかに遅刻した自分も悪い。それは雪菜もわかっている。しかし、生徒指導室を掃除しなければならないほど悪いことなのか。きちんと説明してくれれば納得できたはずだ。それを放棄してただただ居残り掃除を命じるのは大人としてどうなのだ。もしかして山本先生は生徒の遅刻にかこつけて指導室の掃除をやらせる――そんなビジネスをしているのではなかろうか。きれいにしたければ先生がやればいい。これはれっきとしたパワハラだ! いくら相手が山本先生だからと言って脅しに屈するなんてみじめすぎる。理不尽な命令に対する大義ある抵抗として帰ってしまおう。転がすたび巨大化していく雪玉のように正義感と勇ましさが募り、自分でも制御できなくなった。
帰りのホームルームが終わり、いの一番に教室を飛び出そうとすると、
「あ、橘さん」と河野先生に呼び止められた。
「生物準備室の整理を手伝ってくれませんか?」
雪菜は河野先生からよく頼みごとをされる。
先生は岩礁にべとっと張りついた若布みたいな髪型で、背が低く、やせぎすだ。授業中ヤンキーを指名して無視されて泣きそうな日もあった。ここ最近では安全な生徒ばかり指しているように見える。頼み事をされるたび、しょんぼりうなだれる先生の姿がちらつき断れないのだ。しかし、今日は一刻も早く校舎から離れなければならない。
「男子のほうがよくないですか? 力ありますし」
「重いものはありませんから」
「でも私、今日どうしても外せない用事がありまして」
「どんな用事ですか?」
「あ、いえ。その……。母に用事を頼まれまして」
「どんな用事ですか?」
断ろうとしたのは今回がはじめてだ。こんなにしつこいとは思わなかった。雪菜がもごもご言っていると、
「わかりました。すぐ終わりますから」
「ちょっと待ってくださいよ。今日は忙しいんですって」
河野先生の後を追いかけたが手伝う羽目になってしまった。先生に指示された瓶や小箱をダンボールから取り出して棚に片付けた。三十分ほどで解放された。
生物準備室を出た頃には校舎は静まり返っていた。廊下を踏むたび上履きサンダルの音が高く跳ね返る。
雪菜が昇降口にたどり着くには一つの障害があった。それは生徒指導室が昇降口の隣にあることだ。山本先生が耳をそばだていて、足音を聞いたとたんに飛び出してくるかもしれない。
雪菜は指導室の前を通らないルートをシミュレーションした。しかし今度は職員室の近くを通ってしまう。もし山本先生に出くわしたら、こう問い質されるだろう──
「なぜここにいるんだ? もしかして逃げようとしたのか?」
「そんなわけないじゃないですか。河野先生に呼ばれて来たんですよ」
山本先生はまた「本当か?」と疑って職員室をのぞき、
「河野先生いないじゃないか。嘘ついたのか?」と詰めるに違いない。言い訳の余地くらい残したほうがよさそうだ。
一階に下りてサンダルを両手に持った。
指導室の前方のドアを通り過ぎるときには毛先まで神経を研ぎ澄ませ、つま先でひたひた歩いた。ところがプレッシャーに耐えきれなくなった。雪菜は背中を押されたように走り出した。
昇降口を出てもまだまだ気は抜けない。三年生の駐輪場は正門付近にあるが、一、二年生の駐輪場は裏門の前だ。無事に生徒指導室の二つの窓を越えて、校舎をぐるんと回らなければならない。
指導室の掃き出し窓は閉まっていた。雪菜は姿勢を低くして鼬のように横切った。
つづいて腰高窓に寄って首を伸ばした。網戸が反射している。中の様子は探れそうにない。耳を澄ませても聞こえてくるのは大通りの車の音ばかり。
気がはやっているのは自分でもわかった。音を立てぬように深呼吸し、うずくまるような体勢のまま一歩、また一歩と足を出す。一メートルすすむのに二、三歩かかる。ずいぶん遠く感じた。
無事に通り抜けたと油断したときだった。後ろからコトンと乾いた音が聞こえた。蠅を叩き落とす勢いで首を回すと、赤銅色の植木鉢が倒れていた。さぁっと全身の血が引いていく。怖くて窓を見上げられないが、上からぬめっとした視線を感じる。あわてて植木鉢を起こし、可能な限りこぼれた土を戻し、ロードランナーのように駆け出した。
全力で三十メートルくらいは走っただろうか。息が切れて足元が頼りない。びくびくしながら振り返った。山本先生が追いかけてくる気配はない。雪菜はほっとため息をついた。
校庭にはぽつりぽつり運動部の姿が見えた。渡り廊下を風が吹き抜け、簀の子が歌うように鳴っている。いつもと変わらないのどかな放課後だ。
しばらく解放感に浸っていたが、駐輪場に着いたころ、一つの不安が頭を刺した。
明日、自分はどうなってしまうんだろう。
なんだか風の気まぐれで運命が決まってしまう蒲公英の綿毛みたいだ。とたんに心細くなった。今すぐ引き返そうか。しかし、河野先生のせいで言い訳できないくらい時間が経ってしまっている。戻ったところでこっぴどく叱られるだけだろう。
「仕方ないか……」とつぶやくと少しだけ勇気が出た。
後先考えず行動してしまうのは悪い癖だなと頭を掻いた。




