雪菜と山本先生
朝、雪菜が昇降口に入ると、
「おいおいおいおい」と車田先生がブレーキの壊れたトラクターのように一直線に向かって来た。この人はいつも叱る相手を探している。先生は目をかっ開き、向こう岸に呼びかけるように、
「時間過ぎているのに歩いてくるやつがいるか!」
「違うんですよ」
「何がだ!」
「駐輪場からダッシュで来たら息切れちゃいまして」
「十分早く家を出ればそんな汗かかんで済むだろうが!」
「無茶言わないでくださいよ。朝に十分なんて作れませんよ」
「また言い訳か?」
「いえ、そういうわけでは」
「いいからちゃきちゃき動け。お前が最後だぞ」
雪菜はぼやきながらローファーから上履きサンダルに履き替えた。
廊下に出ると、遅刻した生徒が壁ぎわのガラス棚に沿うように並んでいた。雪菜は列に加わり、背伸びしながら自分の順番を数えた。二十から先は数えるのをやめた。つづいて列の先頭で遅刻届をチェックしている先生を確認した。
「平ちゃんじゃん。ラッキー」
気だるそうな笑みを浮かべ、一言二言交わし、判を押している。雪菜は彼から一度も小言を言われたことがない。今日は幸先がいい。どんな火の粉でも振り払えそうだ。即席の運勢占いに満足した雪菜の目はいつもどおりガラス棚に落ち着いた。
県大会の常連であるヨット部の賞状やトロフィーのほか、海ほたるの飼育でテレビ出演した生物部の写真が整然と飾られている。
そういえば今日の一限目の古典は自分が指名される番だ。早く教室に行って友達に教えてもらわないと。ぼんやり考えていた雪菜を現実に引き戻す銃声のような声が聞こえた。
「お前よく見かけるなあ。ちょっとこっちに来てくれ」
斜向かいを見ると、仁王立ちし、おまけに腕まで組んでこちらを睨みつける山本先生の姿があった。とっさに一歩下がると、侵入者を追尾する監視カメラのように先生の目が追いかけてきた。
「お前だ。一番後ろのお前。早くこっちに来い!」
雪菜を見ていたのは山本先生だけではなかった。前の生徒も、その前の生徒も、取り押さえられた現行犯に向ける好奇の目で見ている。自分のことを言われているのは確からしい。雪菜は列から押し出されるように先生の元に急いだ。
山本先生はおそらく五十代後半。全校集会ではラッパのような声を撒き散らしている学校一有名な先生だ。ポケットに手を突っ込んで廊下の真ん中を歩く男子も山本先生には従順だ。口答えしているのを雪菜は見たことがない。任侠映画から派遣されたようなスキンヘッドに、優に一九〇センチを超える屈強な体。用心棒みたいな強面の生徒指導の先生たちでさえ、山本先生に目が慣れたあとではぱきんと折れてしまいそうな葦に見える。雪菜がはじめて山本先生を見たときには、高校選びを間違えてしまったと青ざめたほどだ。
山本先生は雪菜の渡した遅刻届をじっと見て、
「二年D組の橘雪菜か」
「はい」
「おととい、足をくじいたのか?」
「そうなんです」
「ん? つまり、昨日も遅刻したのか?」
「いえっ、あのですね、昨日だけは遅刻してはいけないと思いまして、いつもより早く家を出たんですよ。でも足を引きずりながらだったので、信号渡るだけでも大変で。なんとか気合で来たんですから」
遅刻届はその都度回収される。雪菜はその日の気分でいくつかの遅刻理由を使い回している。さすがに前回何と書いたかまで覚えていない。この日はずらしてみようと思い立ち、「昨日」と書いていたところを「おととい」に変えたのだ。
山本先生は目を細め、
「本当か?」と脇にはさむように持っていたタブレットを取り、
「橘……。橘……」と雪菜の名前を探し始めた。
山本先生とは一メートルほど離れていた。しかし、この距離は有って無いようなものだった。じゃがいものごとくごつごつした顔やワイシャツのカッターからはみ出ている首の肉さえ、先生の威厳を増幅させる装置に見える。
「おい、橘雪菜。絶句してしまったぞ。お前、今まで何回遅刻したかわかっているか?」
「えっと十五回……、いえ二十回もしてないです」
「アホ言え。昨年度は三十八回、新年度になって早くも十回だ。えらいハイペースじゃないか。他の追随を許さないな」
「ええ! そんなはずないですよ。そんなにしていたら遅刻のしすぎって気づくじゃないですか」
しかし山本先生は何も答えず、冷ややかな目を向けるばかりだ。
「きっと何かのミスがあって、ほかの人のやつと混ざってしまったんじゃないですかね」
先生はふたたびタブレットに視線を落として、
「なるほどな。そうとも考えられるか……」といったんは納得したそぶりを見せたけれど、
「そんなわけあるか!」
頭に血がのぼった雀蜂のような目に、雪菜は踏みとどまるのがやっとだった。
先生はこちらを睨み下ろしていたがしばらくして、
「さて、どうしようか?」と訊いた。
「次回から遅刻しないように気をつけます。しっかり反省します」
無難な答えを選んだのに山本先生は厳しい顔のままだ。
「よし、橘。こうしよう。遅刻した回数だけ生徒指導室の掃除をしなさい。今日の分も入れて四十九回だからな! いいな?」
うなずいたのは納得したからではなかった。小舟を海底に引きずり込む渦潮のごとき先生の凄みに飲まれただけだった。
「逃げるなよ?」
山本先生は念を押して、風を切るように雪菜のそばを通り過ぎた。




