和歌の力
春になり、雪菜は三年生になった。
日曜日に部屋掃除をしていると視線を感じた。どうやら本棚の上の小物入れかららしい。不審な面持ちで近寄ってみると、そこには父の双眼鏡。場になじんでいるためか普段は気にならない。久しぶりに外に連れて行ってくれ、とでも訴えているみたいだ。
雪菜は懐かしさから手に取った。ためつすがめつ眺めたり、外にレンズを向けていたら、光の矢に射抜かれたかのように、ライファーに会った感動がよみがえってきた。父もしばらく野鳥観察をしていないのだろう。見せてあげようと思った。
海浜公園に向かった。晴天の中、南西にすじ雲が広がっていた。水気のない刷毛で無理やり延ばしたように見える。もう春爛漫。街路では躑躅が咲き初めている。花壇ではひらひらとアゲハチョウが舞い、生垣からクマバチが飛び出してきた。
公園入口をこえて松並木を歩いていると、ウグイスのさえずりが聞こえた。目をやっても姿らしい姿はない。
「ホ~、ホケキョ」とお手本のようにさえずる者もいれば、「ケキョ……」と下手っぴな者もいた。
雪菜は堤防を下りて海岸を西に歩いた。潮風が優しい。こうして自然に帰るのはいいものだ。
父が亡くなったのは雪菜が入園前だったらしいから、覚えていないだけで一緒に来たことあるのかもしれない。父に肩車をしてもらって誰よりも高い場所で海を楽しんだのだろうか。それともサイクリングコースで、三人おもしろ自転車を楽しんだのだろうか。
渚に立ってとりとめもなく思いを巡らせていたら、記憶の水底が掬い上げられたかのように、雪菜は藤原忠通の歌を思い出した。
──わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの雲居にまがふ沖つ白波
(大海原に漕ぎ出して見渡すと、はるかかなたに雲と見間違えてしまうような沖の白波が立っていることだ)
ここは小さいころ母に連れてきてもらったし、また中学になってからは美月とよく来た場所だ。飽きるくらい見た景色でも、和歌の調べに乗ると新しいものに見えるらしい。はるか先に紺碧に色づいているのは空なのか海なのか。たなびくような白い塊は雲なのか波なのか。
つぶやくように暗唱しているうちに、雪菜は籠もりがちだった生活の中にも変化が起きていたのを知った。
百人一首に夢中だった頃はレトリックをふんだんに使った歌が好きだった。蜘蛛の巣のように細部まで編まれた和歌に芸術性を感じたものだ。この好みだけはぶれないと思っていた。
しかし、こうして離れてみると、無駄なものを全て削ぎ落とし自然に逆らわない和歌こそ余白が温かく、自分だけの世界を描ける自由がうれしい。和歌の極致にも思える。
時間は物の形を変える。山本先生の言ったとおりだ。
「やっぱり私は百人一首が好きなんだ」
おのずと笑みが漏れた。百人一首を読むと和子を思い出してしまうからと露骨に避けた日々がむなしく思えた。時間には深い悲しみを和らげる治癒者としての役割もあるようだ。
雪菜はふたたび歩き出した。美月と来たときに比べ、ずいぶんと景色が変わっている。
冬鳥は一部しか残っていなかったけれど、去る者がいれば来る者もいた。ちょうど春の渡りの時期。シギチが立ち寄っていた。メダイチドリがぬかるみから糸を引っ張るようにゴカイを食べていた。キョウジョシギが風を楽しむかのように海を見ていた。
ところで父のバードウォッチングのスキルはどれほどだったのだろう。シギとチドリをさっと同定できたのだろうか。
波打ち際ではミユビシギが三十羽ほど群れになって走っていた。波に流された小貝やカニを狙っているのだろう。
波が引くと彼らは追いかけるように駆け寄り、濡れた砂にくちばしを突っ込んでいた。ふたたび波が寄ると、皆で一斉に逃げていた。
行ったり来たりしているミユビシギたちは採餌するよりむしろ遊んでいるようにも見える。
その姿は子どもの頃に遊んだ「花いちもんめ」のよう。
雪菜は手の中の父に聞こえるように口ずさんだ。
「勝ってうれしい花いちもんめ。負けてくやしい花いちもんめ」
それに引っ張り出されるように浮かんだのは、コンサートの日に和子とした約束だった――
「一緒にミユビシギを見に行きましょうよ、また私が車椅子押しますから!」
あのときは翌日にも実現できそうだと思ったのにもう果たせぬ約束になってしまった。
もし一緒に来られたのなら和子は幸せそうな笑顔を見せてくれただろうか。雪菜の好きなミユビシギを好きになってくれただろうか。
あたりを見回した。木のベンチでコーヒー缶を片手に話し込んでいるお年寄り。シートに寝そべっている小麦肌の女性。テントの中で過ごしている親子連れ。彼らはミユビシギに目もくれず、おのおのの時間を過ごしているようだ。
雪菜にとっては流星群のようなこの絶景も、彼らには海岸に無数に散らばる貝がらの一つにすぎないのか。同じ時間、同じ場所にいる人が同じものを見ていないのがおかしかった。
スマホを取り出し一枚撮ってみた。海しか映ってなく、面白味のない写真だ。白浜を映そうと後ろに下がってもう一枚。やはり変わらない。風景を切り取ったのか、それとも時間を保存したのか。どちらも正解な気がするが、無機質で自分の思い描いたものにならない。
考えてみれば、こうして事あるたびにスマホを取り出して景色を撮るけれど、家に帰って真剣に見るわけでもない、パソコンに移すわけでもない、容量が足りなくなったときはじめて見て、いらないやと消去するばかりである。
スマホを下ろしてふたたび海を見た。この風景は家に着いたらどうなるのだろう。波打ち際に描いた文字が波にさらわれるように記憶から消えてしまうのだろうか。もったいない気がする。
「和歌にしてみたら?」
今度は霊感のささやきなどではなかった。
百人一首は千年以上の時を経た今もなお、歌人の思いが形を変えずに残っている。時間の力に負けまい、決して変わるまいと断固として抗い、その魂は当時のまま存在している。だからこそ読む人の心を潤わせ、時の旅に連れて行けるのだろう。
雪菜は百人一首を勉強してそろそろ一年になる。和歌には計り知れない力があることも知っている。このタイムカプセルに星砂を詰めるように言葉を吹き込もうと思った。
白浜に腰を下ろした。詠みたい風景が明確だったから、今の気持ちにふさわしい言葉を探すのは楽しかった。最後は字余りになってしまったけど、それも一興と笑い飛ばせる余裕があった。
──昼下がり父と並びて見る海の色と形をつぶさに語らう




