地球の知らないこと
帰宅して雪菜は伊澄に清めの塩を振りかけてもらった。
「きちんとお別れできた?」
「うん。できた」
「つらくなったら、ためこまないで話してね。いつでも聞くからさ」
「うん。ありがとう」
「本当にどんなでもいいんだからね」
「……お母さん、謝りたいことがあるの」
「ん?」
「ずっと心に引っかかっていたんだけど、素直になれなかった。私は何もできないくせに、お母さんには完璧を求めてたんだなって。本当に反省してるの」
「急にどうしたの?」
と伊澄はきょとんとしたが、
「何もできなかったって七條さんのこと? 雪菜がどうこうできることじゃないでしょ」
「そうじゃない。お母さん、その……私の声が聞こえにくいんでしょ? 一度『こんなわかりやすく言ったのに何で聞こえないの?』って言ったじゃない。私ね、『えっ?』と訊き返されるたびに腹立ってたの。あの時のお母さんの顔、今でも心に残ってる。できるのにさぼる人はずるいと思うけど、そんなのみんな一度や二度は──ううん、違う、数えきれないほどやってしまうじゃん。でも……できない人にどうしてできないんだって責めるのはすごい卑怯だよ。私、あの一言をずっと後悔してた! 和子さんの告別式に出て思ったことがあるの。笑っても喧嘩しても私たち家族に残されてる時間は変わんないんだから、助け合わなきゃって、昨日よりも優しい自分にならなきゃって、思ったの。今ね、この約束したい気持ちがいっぱいで押さえられないの! 私はいつまでもお母さんの味方でいるし、私たちがもしそうなれたらさ、お父さんだって喜んでくれるでしょ? 私、何度でも言うから! 百回でも二百回でも。お母さんの耳に届くまでずっと! 今まで無理を押しつけて本当にごめんなさい。これからは三人――ううん、もちろんリーベも! 家族みんなで生きていくの」
伊澄の目からつっと涙が垂れた。
「突然何を言うかと思ったら。あんたはまったくもう。そうね、私も賛成。家族で支え合いながら生きていこうね。でも、その……お父さんのことはもういいの?」
「うん。時間かかっちゃけど、もうきちんと気持ちの整理ついたから。そのこともごめんなさい」
「今日は謝ってばかりね」
「だって……」
「ねえ雪菜。あなた、本当に何もできないと思ってるの?」
「うん。和子さんに残されてる時間が少ないってわかってたのに、一歩踏み出す勇気がなくて、大切な時間、無駄にしちゃったから……」
雪菜が震えた声で言うと母は短く息をついた。スマホで何かを調べているようだったが出し抜けに、
「百人一首の八十三首目」
「急にどうしたの?」
「いいから言って」
雪菜は嗚咽交じりの声で暗唱した。
「──世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
(世の中には遁れる道などないのだなあ。深く思い詰めて入ったこの山の奥でも悲しげに鹿が鳴いているようだ)
「誰の歌?」
「藤原俊成。定家のお父さん」
「五十六首目は?」
「和泉式部の、
──あらざらむこの世のほかの思い出に今ひとたびの逢うこともがな」
(私はまもなく死んでこの世を去るでしょう。あの世への思い出に、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです)
「また合ってる。じゃあ九十首目は?」
「殷富門院大輔の、
──見せばやな雄島の海人の袖だにも濡れにぞ濡れし色はかはらず」
(血の涙で色の変わった私の袖をあの人に見せたいものだ。あの雄島の漁師の袖さえ、ひどく濡れても色までは変わらないというのに)
「すごっ……。やっぱり音読って効果あるのかしらね」
「えっ! なんで知ってるの?」
「だって部屋からお経のような声聞こえてたし」
雪菜が言葉を失っていると、
「あなた、まわりが見えなくなるくらい夢中だったんでしょ? 青春の全てをかけても後悔しないくらい、一生懸命やってきたんでしょ?」
自分でも耳の根元が染まっているのがわかったが、口を真一文字に結んでうなずいた。
「何もできないなんてないじゃない。番号聞いただけですらすら言える人のほうが少ないって。もっと自信もちなさいよ。雪菜はみんなができないことをできるんだから」
「お母さん。いつもありがとう」
「今日はらしくないのねえ」
と伊澄は鼻をこすったが、
「ねえ雪菜。私ね、ここ最近ずっと気になってたことがあるの。前まではすぐ憎まれ口叩いたし、言い訳してもそれすらうまく伝えられなかったのに、ここ最近すごくおとなしかったでしょ? 私が冗談言っても冷静に答えるんだもの。学校で何かあったのかなって心配になったんだから。でもそうじゃないんだよね。雪菜は私の知らないところで大人になってたんだよね。本当は喜ぶべきなんだろうけど、なんだかねえ……」
「何も変わってないよ」
「だといいんだけど。あなた、七條さんに会えてよかったみたいね」
「うん。あの日、声をかけてよかった」
ドアを開けると部屋の匂いがした。普段は感じとれないが、二、三日離れてようやく嗅ぎ分けられるそんな匂い。
雪菜はベランダに出て深呼吸をした。
立春を過ぎてここ姫鵜町の香りもわずかに春を帯びたように感じる。西の空には雲が広がり、幾筋かの光芒が漏れていた。その前を横切るカワウの群れは塒に向かっているのだろう。
制服から部屋着に着替え、空気を入れ替えようと網戸にした。廊下からリーベの呼ぶ声が聞こえた。ドアを開けると彼は尻尾を立てたまま入ってきた。リーベは雪菜の足に首をなすりつけ、くるっと回ってお尻をつけた。雪菜がリーベの腰をぽんぽんと叩くと、彼はうれしそうに腰を突き上げた。
やがてリーベはベッドの真ん中で毛繕いをはじめた。雪菜はぼうっと見ていたが、夕食の準備をはじめる前に少しだけ休もうと思った。彼を隅っこに押しやる元気はなく、足がはみ出るようにベッドに倒れ込んだ。
天井に西日が模様を描いていた。向かいのコンビニからだろう。煙草の嫌なにおいがした。げらげら笑い合う男女の声。大通りをトラックが走り去る音。救急車のサイレン。そしてシジュウカラの地鳴き。
和子が亡くなったのを地球は知らないようだった。狂うことなく、時間というレールの上を同じ速さで動いている。誰かの生が死に変わってもほとんどの人は何も気づかず時間だけが流れていく。
雪菜の心にはぽっかり穴があいたのに。
誰にも埋めることのできない深い穴があいたのに。
和子の名前を呼ぶと涙が止まらなくなった。声を殺そうと腕を圧しつけた。誰にも聞かれたくないのにドアをすり抜け、廊下から階段を下りて、母に届きそうなくらいの大きな声。
落ち着こうと息を整えたときだった。隣からもそもそと音が聞こえた。リーベがくっついてきた。
涙が乾き、まぶたがひりひりするくらいの時間が経った。そろそろ夕食を作ろうかと伸びをすると何かにひっかかった。仰向けのままヘッドボードを探り、手につかんだ物を拾い上げる。
母が買ってくれた百人一首の本だった。そぞろに開くと、目に飛び込んできたのは和子の一番好きな歌だった。
──世の中は常にもがもな渚こぐ海人の小舟の綱手かなしも
(世の中は変わらないでいてほしいものだなあ。この渚を漕いで行く漁師が浜辺から、小舟の舳先にくくりつけた綱を引いているのを見ると、しみじみといとおしく感じられるなあ)




