牡丹雪は小夜に降る
天気予報の通り、夜になって雪が降った。
雪菜はリクライニングチェアで百人一首の僧侶歌を楽しんでいた。番号順に拾っていくと、気ままな隠遁生活からストイックな山岳修行へと、時代が法師像を変えているのを知り、感嘆の声を上げた。
外は風が強いらしい。鎧戸がかたかた鳴っている。ぴたりと音が止むと、ベッドからリーベの寝息が聞こえてくる。そろそろ寝る準備しなければいけないのに、あと一首、あと一首とページをめくる手が止まらなかった。
そんな雪菜の時間を裂くようにスマホが鳴った。こんな夜遅くに誰だろう。眉をひそめてディスプレイをのぞくと、目に飛び込んできたのは勝利の名前だった。心が岩打つ浪のようにざわついた。
和子が鬼籍に入ったらしい。訃報を伝える彼の声は風に煽られる、蝋燭の火のごとく幽かだった。
電話のあと雪菜は力なくチェアにもたれ、ぼうっと虚空を見つめた。
「私たちまた会えるから」と和子の言葉を思い出して亡くなったはずないと言い聞かせたり、しかし勝利がわざわざ嘘つくだろうかと思い直してまた不安になったり。
その二つを行き来していたかと思えばふっと思考が飛んで、
「和子さんの最期はどうだったんだろう」
「勝利さん、今一人で大丈夫かな」
と二人の心配をした。
不思議と悲しい気持ちはなかった。五臓六腑をごっそり失ってしまったような、伽藍堂の心があるばかりだった。自分はなんて薄情な人間なのだろう。非難したい気持ちでいっぱいだった。
ベランダに出た雪菜が見たのは、漆黒をまとった夜の帳とその前を流れる牡丹雪の群れだった。足を引きずり、手すりに向かった。
街灯に続いて姿を現したのは、町の底を埋めつくす遥かな銀白世界。歩道は塗りたてのペンキのように足跡一つついていなかった。
大通りに立ち並ぶ街灯は一定の距離を頑として守っていた。当たり前のはずのその光景が雪菜の目にはひどく冷血なものに思えた。まるで和子の死が自然の営みの一つであると告げているようだ。
街灯は薄暗く、中には消えているものもあった。ふらふらと夜の町をさまよっていた雪菜の視線が吸い込まれるように一つの街灯に止まった。その明かりは濃淡の二重円を描いているように見えたが、次第にその輪郭がにじみ出した。
「和子さん……」
今ならまだ声が届くと思った。
目尻から一筋の糸が引いた。その跡に冷気が張りつくと、雪菜の意識は覚醒したかのように明瞭になった。
うなるような音を立てて一台の車が走り去ると、ぞっとするほどの深い静寂が雪菜を襲った。
雪菜は和子に告げた夢を彼女のいない世界で実現させなければならない。和子との思い出も、彼女の遺した言葉も、屈託ないあの笑顔も決して忘れまいと誓った。
ふとしたはずみに生まれる心の隙間に雪が積もる。
ふり仰いだ雪菜の目に一片の牡丹雪が留まった。それは重力の摂理に逆らい、来し方行く末も知らずふらふら彷徨っているようにも見えた。




