和子の因果応報
雪菜はさっそく和子に連絡した。返事はなかった。
ところが勝利に電話すると、二、三コールで応答があった。
「久しぶり。元気してた?」
けろりとした様子だった。
雪菜はその気安さにほっとしたが、彼は和子の話題になるとあからさまにぼかした。
電話するたびこれが繰り返された。
雪菜は堂々めぐりに耐えかね、
「きちんと向き合ってください。あんな終わり方では納得できません」
と訴えた。彼はしばし黙ったけれど、
「やっぱり雪菜ちゃんにも知る権利があるよね。ちゃんとしなきゃね」
と最近の和子の様子を教えてくれた。
苦しそうに咳き込み、勝利が部屋に入るのを拒む日もあると言う。週に三回女性ヘルパーが来るほか、それ以外の日は車で三十分ほどの場所に住んでいる香織が帰ってきているらしい。
せめてお見舞いだけでもと伝えると、
「さすがに今すぐというわけにはいかないけれど」
と前置きしながらも、和子に確認して連絡すると約束してくれた。
勝利から和子に会ってほしいと連絡があったのは、翌週には大寒が明け、暦の上では春が始まる時期だった。
当日、海秋沙駅の南口を出るとからっ風が身に沁み、磯の腐った香りが鼻についた。あれほどまで和子に会いたいと願っていたのにいざ会う段になると、今すぐ会いたいような、会うのが怖いような、矛盾する気持ちで揺れていた。
七條宅に着いてインターフォンを鳴らすと勝利が出てきた。以前と変わらず、こちらの緊張を溶かす笑顔だ。挨拶のあと二言三言交わして和子の部屋に案内してもらった。ホームパーティーの日には気にも留めなかったが、彼女の部屋はリビングと襖つづきだった。
ノックして戸を引くと、少しだけ背が傾いた介護ベッドに和子がいた。狐色のガウンを羽織り、その間から色褪せたチェック柄のパジャマが顔を見せている。雪菜はその急激な変化に立ち尽くした。
「雪菜ちゃん。いらっしゃい」
和子は優しくほほ笑み、肘をついて体を起こそうとした。しかし、体勢を支えきれずにそのままベッドに倒れてしまった。雪菜はあわてて駆け寄った。
「無理しないでください」
「ごめんね。こんな姿見せて」
あんな態度とられて本当に悲しかったんですから。今朝雪菜は和子に会ったら軽口の一つくらい言うつもりでいた。しかし申し訳なさそうにうつむく彼女を見て、わがままを言える状況ではないと察した。
「いえいえ。今日は無理言ってすみません。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくね。雪菜ちゃん、何度も連絡してくれてありがとうね。意地になっちゃってごめんね」
和子にうながされ、雪菜はベッド脇に出してあった丸椅子に腰をかけた。
部屋は八畳ほどの和室だった。ベッド下にはカーペットが敷いてある。
部屋の角に鏡台があった。ところどころ糸のほつれた牡丹柄のカバーがかかっている。その前には本が無造作に積み上げられ、化粧品、写真立てなどが所狭しと並んでいる。
窓際の桐箪笥の前にそぐわないカラーボックスがあった。その上にくすんだ色の洗濯物が畳まれていた。
雪菜が紙袋を渡すと、和子はゆっくりとのぞき込んで、
「あら、ありがとう。何かしら?」
「黒豆と里芋です」
「ずいぶんとたくさん。これどうしたの?」
「母からです。お世話になっているからって、たくさん渡されました。黒豆は毎年母が煮ているものなんですけど、こちらの里芋はセラヴィ――あっ、母の料理教室の生徒さんからのお裾分けみたいです」
「ありがとう。伊澄さんにもよろしく伝えてね」
「はい」
和子は枕元の台に紙袋を置こうとしたが体が回らなかった。代わりに雪菜が置いた。
「体調はどうですか?」
「今日は調子が良いのよ」
言葉とは裏腹に和子の声の弱々しい。心配をかけまいとしているのが寂しかった。
「そうそう。和子さんにお知らせがあるんですよ。なんと美月がSNSに哲学の解説動画を投稿しているんですよ。でもまだ始めたばかりで再生数少なくて、動画によっては私しか見ていなさそうなのもあるので、和子さんも見てあげてください。あとでチャンネルのアドレス送りますね」
「美月ちゃんも新しい一歩を踏み出したのね。早くみんなが見てくれるといいね」
以前は話題に困らなかったのにこの日は違った。話し終えるとすぐに鉄扉が閉まり、なかなか言葉が取り出せない。せっかくつかんでも熟れた果物のようにべちゃっと潰れてしまう。やっとの思いで会えたのに黙っている時間のほうが長かった。
窓からあの自然公園が見えた。瑠璃色の池は今どうなっているのだろう。待ち合わせして三人で話した記憶も遠いものに思える。
公園の上空をトビが飛んでいた。上昇気流に乗って優雅に舞っている。
ぼんやり眺めながら、
「私は一体何しているのだろう……」と他人事のように思った。
和子が咳をしたら背中をさするけれども、言葉が見つからないのに探そうともしない。焦りもせずヘルパーのようにそこにいるだけだ。
丸椅子が熱くなるくらいの時間が経った。
気づいた頃には和子の背が弓のように曲がっていた。きっと疲れてしまったのだろう。帰ろうと荷物に手をかけたとき、雪菜はまたあの霊感のささやきを聞いたのだ。
『和子さんに会えるのはもうこれが最後だろう』
これまで新しい道を示してくれたその声は雪菜をひどく惑わせた。反応しまいとつとめたが、これまでの和子との記憶が走馬灯のように呼び起された。数々の思い出が頭を支配し、心を縛った。口に出してはいけない言葉が浮かんだ。そうでない言葉もあった。泣くまいと決めてここに来たのに、まぶたが水に沈めたハンカチのようにじっとり濡れた。
「あれっ、おかしいなあ、こんなはずじゃなかったのに……。すみません」
「どうしたの?」
和子はきっと困っているに違いない。雪菜がうつむいたときだった。
「雪菜ちゃん」
上目遣いで見ると和子が手招きしていた。雪菜は腰が押されたようにすっと立ち上がった。
和子は震える手を雪菜に回し、ゆっくりと引き寄せた。
頬に和子の髪が触れた。甘く優しい感触だった。彼女は雪菜の頭を赤ん坊でも扱うかのようにそっと撫でた。
和子の匂いがした。いつもの香水が剥がれて露わになった少しだけ乾いた和子の匂い。はじめて嗅いだような、生まれる前から知っていたような。その匂いに誘われるように雪菜の頭に浮かんだのは百人一首の歌だった。
──瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思う
(川の流れが速いので、岩にせきとめられて二手に分かれた急流がやがて一つになるように、今は引き離されたとしてもまたあなたに逢いたいと思う)
「ありがとうね、雪菜ちゃん。あなたに逢えて本当によかった。私に残された時間はわずかだけど、あなたの未来はこれから。悲しいけれどね、これは世の理なの。だから泣かないの! 順番が来ただけなんだから。これから私が言うこと、頭の片隅に置いてくれる?」
雪菜は返事をしようとしたが、声にならなかった。和子にわかるよううなずくと、髪が彼女の肩にすれる音がした。
「雪菜ちゃんが泣いていたら、いろんな人が優しさをくれると思うの。それはあなたのそばにいる人かもしれないし、思いがけない人かもしれない。もらった優しさをずっと大切にしたい気持ちはもちろんわかる。でもね、そんなときこそ独り占めにしないで困っている人がいたら分けてあげられる──そんな人の痛みがわかる大人になってね。もちろんこれは雪菜ちゃんの明日を束縛する言葉ではないの。あなたが分けたくないと思ったら分けなくてもいい。それはあなたの選択だから。でもね、私は最近こんなことを考えるの。人からもらった優しさを内にとどめていたら流れはそこで終わってしまう。自分だけはいつまでも温かい気持ちでいられるけど、本当に必要な人の元には届かない。救援物資のようにね。でもね、もし勇気を出して困っている人に分けてあげたら、そこにはあなたの優しさも加わった新しい流れができるの。そのバトンこそ私たちの生きた証。それはいつの日か必ず雪菜ちゃんやあなたの一番大事な人の元に返ってくるから」
山本先生とは切り口の異なる和子の因果応報だった。
母に自分の名前の由来を聞いたあの日、雪菜ははじめて父の心に触れた。父の最期をかたくなに受け容れず無責任な人だと断じ続けた過去の自分を今は責めている。
和子の言葉はそんな雪菜を認め、許し、救ってくれるものだった。
父が命と引き換えに人にゆずった優しさは今でも雪菜の知らないところで生きていて、その優しさを受け取った人たちが手をつないでできた大きな輪が、時を越え、形を変えて、いつの日か伊澄や雪菜の元に届く。
雪菜が何年もかけてこしらえた不浄な霧がさっと晴れ、冬の天の原から幾筋もの流れ星が降り注ぐようだった。
「体には気をつけるのよ?……そんな顔しないで。私たちきっとまた会えるから」
部屋を出ようと障子の引き手に手をかける直前、和子を振り返った。彼女の小さい体を破りそうな大きな咳がそこにはあった。




