遅刻魔の卒業式
二学期の終業式が近づいたころ、雪菜の居残り掃除は最終日を迎えた。
十日ほど前から山本先生が黒板に「残りあと●日」とカウントダウンしてくれた。はじめはよろこびと面映ゆさが点々とあるだけだったが、最後の掃除を終えたときには、おぼろげな焦りがブラックホールのように飲み尽くした。
「よしっ、橘。これにて掃除終了だ。よく頑張ったな」
「ようやくって感じですよ」
「掃除を始めてからも、ちょくちょく遅刻するからだろうが。どうだ、達成感あるか?」
「そうですね……」
と雪菜は教室を見回した。
山本先生は明日からも同じ学校にいる。もし雪菜が願えばいつでも会えるはずだ。しかし、雪菜にはもう指導室に来る理由がない。山本先生に会いたくなってここに来ても、今までと同じ密度で話はできないだろう。長い夢から覚めて現実に戻らなければならない。深い喪失。
「いろんな気持ちがあって、なんと伝えていいかわからないです。今日まであったものが明日にはなくなってしまうんですね」
「まあそう言うな。はじめてここに来たときは不満だらけの顔をしていたが、今は見違えるようになったじゃないか」
山本先生は思い出したように、
「そう言えば、あれから七條先生とは会っているのか?」
「海秋沙駅のそばに大きな自然公園あるじゃないですか」
「ああ、バーベキューやっているところか」
「はい、そうです。そこで時間を合わせて週に一、二回会っていたんですけどね」
「どうした? そんな顔して」
「この間、もう会うのはおしまい、って言われてしまいました」
「そうなのか……。七條先生なりに悩んだのかもしれないな」
「はい。わかっているんです。和子さんも勝利さんも私のためを思って、別れを切り出したんだって。私と同じくらいつらかったはずです。それはわかっているんですけど」
「ふむ」
と先生は吐息をつくように言って、
「こう言っては叱られるだろうが、七條先生はあまり理性的なタイプではなくてな、情にほだされて行動が先走ってしまうし、場の雰囲気に飲まれて何でも引き受けてしまうところなんか、今も昔も変わらない。あっさり人を切り捨てられるほど器用な人でもないだろう。もし心配なら、勝利さんに相談してみたらどうだ?」
「いきなり電話かけたら失礼じゃないですかね?」
「考えすぎじゃないか?」
「そうですかね」
「人と人の関係にはどうしてもタイミングってものがある。橘と七條先生の間に何があったかはわからないが……」と言ってから、先生はふっと表情を崩し、
「なーに、そんな不安そうな顔をするんじゃない。もしうまくいかなかったら、そのとき悩めばいいじゃないか。それに、そのタイミングがいつかは、私よりも橘──おまえのほうがわかるんじゃないのか?」
先生の言葉に刺激されたかのように、雪菜は自分に起きている変化を知った。以前なら頭より先に体が動いていたのに、考えすぎて動けないなんて。らしくないと思った。
「私、なんだか臆病になってたみたいです。ありがとうございます」
山本先生はほほ笑みながら、
「さて橘。最近百人一首で感動した歌あったか? もしあったら、最後に授業してくれないか?」
「はい。わかりました。これは本見ないでも大丈夫です」
「おお。頼もしいな」
雪菜は黒板に和歌を書いた。
──我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾く間もなし
「これは二条院讃岐の歌です。現代語訳は、『私の着物の袖は引き潮でも見えない沖の石のように、人は知らないけれども、涙で濡れて乾く暇もない』です。和歌を読んでいると、よく袖が濡れたって表現が出てくるじゃないですか。最近はすぐに、涙を袖で拭いたから濡れているんだな、と頭が動くようになったんですけど、沖合の石に例えてずっと濡れていると詠んだ歌は少ないですね」
「ほお。わかるか?」
「はい。たくさん読みましたから」
「すばらしい! それにしても渋いの選んだな」
「はい。この歌はですね、和泉式部の歌の本歌取りなんです」と言って、雪菜は隣にもう一首書いた。
──我が袖は水の下なる石なれや人に知られで乾く間もなし
「本歌取りとは、誤解を恐れずに言うとオマージュのことです。有名な和歌の言葉を使って、その世界観を取り入れるんです」
「はじめて私が百人一首を教えたとき、天智天皇の歌を見て、盗作だ、忖度だと言い切った橘が本歌取りの歌を選ぶなんてな」
「そんなこともありましたかね」
と雪菜は頭を掻いた。
「あれからもう半年になるんだな」
「はい。二条院讃岐がこの歌を詠んだら空前の大ヒットになって、彼女は『沖の石の讃岐』と呼ばれたんです。なんだかふざけているみたいで笑ってしまいますけど、この歌にはもっとおもしろい話があるんですよ。山本先生、鵺って知ってますか?」
「んー、たしか妖怪だったか?」
「はい。頭は猿、胴が狸、手足が虎で、しっぽが蛇をしているんです」
「いろんな動物が混じりすぎて想像できないな」
「ですよね。二条院讃岐の父は、なんと宮中に表れた鵺を退治したのでも有名なんです」
「橘はそういう話好きそうだな」
「はい。都市伝説大好きです。残念ながら、鵺の正体はある野鳥だと言われているんです」
「そうなのか?」
「はい。トラツグミという鳥なんです。保護色なのであまり目立ちませんけど、おなかにたくさんの三日月斑があってきれいな鳥なんですよ。夜中とか早朝に『ヒィー、ヒィー』って寂しそうに鳴くので不吉なものとされて、鵺と思われたみたいです。トラツグミはずんぐりむっくりの体型をしていて、餌を取るときにお尻をふりふりするんですよ。地面を揺らしてミミズを驚かせるためなんですが、『トラダンス』とも呼ばれていて、かわいすぎて反則なんです!」
「しかし、橘は本当によく勉強するな。まさか百人一首と野鳥の知識がつながるなんてびっくりだ」
指導室にはじめて来たとき、西日が雪菜の立っている位置まで届いていなかったはずだ。しかし冬になり、もう膝あたりまで陽が当たっている。夕焼けを見ながら先生と話をするのはこれが最後なのだろう。
山本先生はゆっくりと立ち上がり、黒板に「幽玄」「有心」と書いた。
「 今の橘なら理解できるだろう。もし和歌の道に進むなら、是非とも押さえてほしい概念だ」
まるで師匠が弟子に奥義継承をするみたいだ。
「幽玄を一言で言うのは難しいのだが、物事の趣には言葉では言い尽くせない余情があるんだ。五感で直接感じ取れるものではなく、想像力をふんだんに働かせてはじめてとらえられるものといったイメージだな。松尾芭蕉の『古池や蛙飛び込む水の音』がいい例だろう。橘、この俳句からどんな情景が浮かんだ?」
「えっと、季語は蛙なので春ですよね。古池から花曇りの日を想像しました。静寂の中、蛙が池に飛び込むとチャプンと音が聞こえてきます。そして池にゆっくりと波紋が広がります。波紋が消えるとまた深い静寂がやってくる。そんな感じですかね」
「おまえは詩人か」
と山本先生は笑って、
「さて次は有心だ。有心とは情意のこもった歌風を言ってな、深い情趣の中にある余情を、優美に、そして妖艶に表現することをいう。だから私たちは和歌を鑑賞するときには口語訳に縛られず、言葉の選び方、表現、韻律、格調を味わおうとする姿勢が大事なわけだな。幽玄から有心へと発展させたのが──説明は不要だな、藤原定家だ」
「頭では理解できたつもりですが、口で説明しろと言われたら難しそうです」
「理解度何パーセントくらいだ?」
「五十パーセントくらいでしょうか。幽玄は物の奥深くに隠れている本質で、そして有心はその本質をどう表現するかでしょうか」
「ようやく橘らしくなったな」
「私……らしくですか?」
「今日はいつもの元気がなかったから何かあったのだろうと思っていたが。『らしさ』というのは言いにくい言葉になってしまったが、これだけは覚えておいて損はない。いざというとき助けてくれるのは他人なんかじゃない。長い時間をかけて磨いてきた自分らしさなんだ。わかるか?」
「はい。なんとなくですが」
「そうか」
それから少しだけ話をして、名残惜しいですがと雪菜が帰ろうとすると、先生は目も合わせずに、
「家に帰ってから開けてくれ」
とイラストつきの封筒を渡した。
郵便ポストで待っている犬に鳥が手紙を配達する絵だった。
教室を出て昇降口に向かう途中、やはり封筒の中身が気になった。山本先生には悪いと思いながらも、柱のかげに隠れて封筒を取り出した。便箋が一枚入っていた。中を見ると、書道師範顔負けの字が書いてあった。
『橘雪菜へ
私が「お疲れ様」というのはこれが最後になるな。今はどんな気分だ?
清々しさを感じているところだろうか。
それとも小さな感傷に浸っているところだろうか。
掃除よく頑張ったな。今日は掃除したくないと思った日もあったろう。さぼって帰りたいと思った日もあったろう。それでも一日も休まず指導室に通ったのは本当にすごいことだと私は思う。橘のしたことは誰にでもできることじゃない。同じ事をこつこつ続けるのは何よりも難しいのだから。
人生は長い。人を騙したり嘘ついたりせず、きちんと自分の足で歩いていれば必ず壁にぶつかる。抜き差しならない事態に困惑し、頭を抱える日もあるだろう。
指導室で私と過ごした日々は──逃げ出したくなった時にふと思い出して笑顔になれる、そんな橘の財産の一つであってほしいと思う。
気まぐれから始まったことだが、百人一首の授業おもしろかったぞ。楽しそうに話す橘を見て、学生時代を懐かしく思い出した。素敵な時間をありがとう! 橘がどんな大人になるか楽しみにしている。たまには顔を出して百人一首や鳥の話をしにきなさい。 山本義則』
雪菜は生徒指導室を振り返った。居残り掃除を命じられて逃げ出そうとしている半年前の自分が見えるようだった。掃除をやると決めてこの場所から雪菜の青春が動き出したのだ。あのときは素直に行動できたけれども、もし勇気がなくて一歩踏み出せなかったら今も変わらぬままだったのだろうか。
和子は「もうこれで会うのはおしまい」と言った。あんな別れ方で終わらせていいわけがない。たとえ拒否されたとしても、同じ時間を過ごしてくれた感謝だけは伝えよう。
雪菜は山本先生に背中を押されたように昇降口を飛び出した。




