好きの掛け算
コンサートのあと和子は体調を崩したらしい。雪菜が七条夫妻と再会したのは、期末試験が終わり十二月に入ってからだった。
薄く陽が差し、白息の出る日だった。もう冬本番。愛用の厚手のアウター、カシミヤのマフラー、ミトンの手袋は欠かせない。
山茶花が見頃だった。雪菜の山茶花と椿の見分け方は花びらが散っているか花首ごと落ちているかで、それをひよこ鑑定士くらいの精度があるものと信じていたが、勝利が意外なことを教えてくれた。
「椿にも一枚ずつ花びらが落ちる品種があるよ」
「えっ! そうなんですか?」
「うん。五色八重散椿が有名だけど、『散り椿』って聞いたことない?」
「いえ。はじめて聞きました」
「ほらっ、見てごらん。山茶花はこんな感じで、散るっていっても疎らでしょ? 僕がはじめて見たのは大学のときだったかなあ、『散り椿』はじゅうたんが敷かれているみたいなんだよ」
と感動の量を示すかのように手を広げて言った。
「本当に五色の花が咲くんですか?」
「五色というわけじゃなくて、ピンク、赤、白に絞りと咲き分けるからじゃないかな」
「そうなんですね。そういえば、山茶花にも白がありますよね」
「白は自生だね」
和子が口をはさんだ。
「山茶花の自生で思い出したんだけどね。『万葉集』には椿は出てきても、山茶花を詠んだ歌はないのよ」
「そうなんですか。何か理由でもあるんですかね?」
「わかるとなんだそんなことかと思うだろうけど、飛鳥時代から平安時代までの日本の中心は畿内でしょ? 山茶花が自生するのは山口県から四国、九州と南なの。山茶花が文献に現れるのは室町時代になってからなのよ」
勝利は植物に詳しい。和子は日本文学に詳しい。雪菜は百人一首と鳥に詳しい。三人で話していると、水中でインクが拡散するように広がっていく。雪菜はこの浮遊感が好きだった。
勝利が訊いた。
「雪菜ちゃん。百人一首に何か花の歌ないの?」
「花なら紀貫之の歌ですかね。想像力かきたてられますよ」
雪菜は和歌を口ずさんだ。
──人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香に匂ひける
「どんな意味なの?」
「ええとですね、貫之が初瀬の長谷寺を参拝するときいつも泊まる宿があったんです。でも疎遠になっていて、久しぶりに顔を出したらそこの女主人に『きちんと宿はありましたのにね』と皮肉を言われたんです。そこで貫之が梅の花を手折って詠んだ歌なんですよ。『あなたはさあどうでしょうね。心の内はわかりませんが、古都奈良では梅の花が昔と変わらぬ香りのまま咲き匂っていますよ』という意味なんです。二人の気持ちを対比させているのがおもしろいですけど、『人はいさ』の部分がなんだか嫌みっぽいですよね」
「そうだねえ」
と勝利は相づちを打ったがすぐに、
「あ!」
と手を打って、
「だから梅なのかな」
「ん、どういうことですか?」
「梅って言ったら香りじゃない?」
「ああ、そうですよね」
「梅は品種がたくさんあるから一概には言えないけどさ、楽しめるのって一か月もないじゃない? それなのに、僕の気持ちと梅の香りはあの頃のまま変わってませんよと言ったわけでしょ。ロマンティストだったのかなあって思ってね。きっと二人は元恋人同士でさ、このときにはそんな冗談も言い合える関係になっていたんじゃないかなあ」
雪菜の思いがけない見方だった。
「勝利さんほど花に詳しいとそんな見方もできるんですね。私は二人の関係はもっとあっさりとしたものだと思っていました」
「それにしても、和歌を暗唱しているだけじゃなくて、背景まですらすら説明できるなんて、雪菜ちゃん、本当に百人一首が好きなんだね」
「はい。でも最近はそれだけじゃ飽き足らずに、新しいゲームを考案したんですよ」
「ゲーム?」
「はい。それはですね、好きの掛け算なんです」
雪菜が言うと、七條夫妻は猫だましをされたような顔になった。
「『人はいさ』では梅が歌われているので、そこから思いつくままに連想していくんです。たとえば、梅と言えば『梅にウグイス』という言葉が浮かぶので、由来はなんだろうと調べるんです。そしたら中国から伝わったものだとわかるんですが、中国ではあまり流行らなかったみたいなんですよね。ところが、日本では『万葉集』や『古今和歌集』に出てきたりと独自の発展を遂げていきます。人気を決定づけたのは『大鏡』にあるこんなエピソードなんです」
雪菜は二人の反応を見ながら、
「天皇が日常生活を送っていた場所を清涼殿というのですが、清涼殿の梅の木が枯れたときの話です。村上天皇の命令により、蔵人──天皇の秘書ですね、彼が梅の木を探しに行ったら、ある庭に美しい木があったんです。掘り起こして持っていこうとすると、家の主人が文を渡しました。蔵人はその文を木にくくりつけて持ち帰ったんですが、村上天皇がその文を見ると、女性の字でこんな歌が書いてあったそうです。
──勅なればいともかしこしうぐひすの宿はと問はばいかが答へむ」
「へえ。どんな意味なの?」と勝利が訊いた。
「『天皇のご命令なので畏れ多いのですが、この木に巣をかけていたウグイスに<私の宿はどこに行ってしまったの?>と訊かれたら、私はなんと答えたらいいのでしょう』です」
「おもしろいね。まさに梅にウグイスだ」
「はい。天皇が不審に思って調べると、梅を掘り起こした家にはなんと! 紀貫之の娘が住んでいたそうです。……とまあ、ここまではおもしろい話だと思うんですけど、実はですね、梅とウグイスは取り合わせがいいだけで、ウグイスが梅を好きというわけではないんですよ」
「うそっ! ウグイスは梅が好きだと思ってた」
和子が子どもの頃に戻ったような声を上げた。今日は口数が少なかったから心配したけれど気のせいだったようだ。
雪菜が先日見たテレビ番組もメジロの映像を出しながらウグイスの話をしていた。勘違いしている人は多いのだろう。
「ウグイスは藪の中にいて虫のほうが好きなので、もし梅の木に止まっていたら、それこそ本当にたまたまなんです。ちなみに梅を好きなのはメジロです。バードウォッチャーは梅に止まっているメジロを見たら『ウメジロー』って言うくらいですから」
「ダジャレだね」
と勝利が笑った。
「はい。つまりですよ? 貫之の娘の歌は、実際のウグイスを観察して着想を得たわけではなくて、和歌や物語に出てきたウグイスから想像を膨らませて詠んだものだとわかるわけですね。……とまあ、こんな具合で知識をつなげていくと、『梅にウグイス』は長い時間の中で支持され、人々の気まぐれや勘違いも吸収しながら、現在まで語り継がれてきたのかなあ、と考えられるんですよ。そんなゲームです」
「このゲームできるのは雪菜ちゃんくらいだよ」
「そんな特別なことじゃ」
和子が口をはさんだ。
「野鳥の知識があると、和歌も違う視点で楽しめるのね。雪菜ちゃんの見ている世界は、私が想像できるよりずっと広いのね」
「和子さんのおかげですよ」
「いいえ、雪菜ちゃんの努力の賜物よ。あなたの『好きの掛け算』を聞いてとても驚いた。あなたはあなたにしかできないやり方で百人一首に向き合ってきた。だから成長が早いのかしらね。いつの間にか雪菜ちゃんのほうが詳しくなっちゃったね」
「ええっ、まだまだ和子さんには及びませんよ」
「本当にうれしくて言っているのよ」
それから和子の提案で三人はいつもの池の前に移動した。
いつの間にか向こうの空を黒煙のような雲が覆っていた。
オナガガモの群れが鳴きもせず喧嘩もせず泳いでいるのが不気味だった。
さっきまで途切れることなく話していたのに七条夫妻も黙ったままだ。
「和子さん。どうしていつもこの池の前にいるんですか?」
「雪菜ちゃんにとってはありふれた光景かもしれないけど、私にとっては特別な場所なの。今年の春から、次ここに来られる保証はないからって目に焼きつけていたんだけど、そのうちこの池に睡蓮が咲いてね、雪菜ちゃんとも出会えた。風の歌が聞こえるような場所で、ゆっくりと時間が流れてるでしょう? 私の世界はそういうものだから」
和子はいったん目を伏せたが、やがて雪菜を見据えて、
「あなたが楽しそうに話しているのを見ると、こちらまで楽しくなる。私のために時間を割いてくれるのはうれしいんだけどね、そのために雪菜ちゃんの一番大切な時間を邪魔したくないの」
「そんな……。邪魔だなんて」
「だからもうこれで会うのはおしまい。あなたはあなたの時間を生きて。ごめんね」
雪菜は助けを求めるように勝利を見た。
しかし、彼は目を合わせず、はじめて会ったときと同じく深いお辞儀した。
取り残された雪菜は言葉をかけられず二人の後ろ姿を見つめるばかりだった。
七條夫妻に会いたいからここまで来ていたのに。雪菜にとって三人で話す時間はかけがえのないものなのに。
帰り道、急坂を上るくらい自転車のペダルが重かった。泣きっ面に砂嵐のような雨風が容赦なく打ちつけた。
この日以降、雪菜は幾度となく和子の別れの言葉を思い出した。それでも一度も和子を責めなかった。きっと心のどこかでわかっていたのだろう。
和子と雪菜の時間は違うということ。二人の間には世界を分かつ高い壁があって、いつかは認めなければならないということ。




