母の秘密
帰宅後ベッドに腰をかけてぼんやりしていると、ノックの後に伊澄が入ってきた。
「コンサート楽しかった?」
「うん。感動した」
伊澄は雪菜が返した封筒をひらひらさせて、
「七條さん、チケット代、受け取ってくれなかったんだね」
「うん。渡そうとしたんだけど」
「あとでお礼の電話かけたほうがいいかしらねえ」
伊澄は天井を睨むように見ていたが、やがて雪菜を見て、
「ねえ。大丈夫?」
「ん?」
「ゾンビみたいな顔で帰ってくるんだもん。いつも元気なのに心配になるじゃない」
「ねえ、お母さん。もしさ……もしだよ? 私が、生きるのがつらいって言ったらどうする?」
「はぁ? あんた死にたいの?」
「いや、言葉どおりに受け取らないでほしくて……」
「受け取るに決まってるでしょ! ダメだからね。死ぬなら死ぬって言いなさい。ほらっ、早く! 急にいなくなったら絶対に許さないからね!」
死を匂わせる発言をしたのは本心からではなかった。もちろん母を怒らせる意図もない。公園でのふるまいに失礼がなかったか、ずっと気になっていたのだ。和子の告白を受け止めることができず、わめいたかと思えば、大泣きし、さらには弱音まで吐いて慰めてもらった。
「あのねえ、少しは遺される人の気持ち考えなさいよ。お父さんだけじゃなくて雪菜もいなくなったら、私ずっとその十字架を背負うのよ? 絶対にやめてね」
「そういう意味じゃないの」
「……試したの?」
「違うってば。説明するから落ち着いてよ」
いくら母とは言え、和子の尊厳を傷つけたり、彼女の秘密をばらしてはいけないと思った。当たり障りなく伝えようとしたけれど、主題に触れずに息巻く母を納得させるのは難しかった。しどろもどろになり、和子の顔が浮かぶと嗚咽がもれた。
「ちょっと……どうしたのよ」
雪菜は詰まりながらも説明を続けた。しかし、自分でも伝わっていないのがわかるほどつたないものだった。
伊澄は雪菜の隣に座った。
「早く大人になりなさい。生まれてよかったって思える日がいつか必ず来るから。考えるのはそれからでも遅くないんじゃないのかなあ。私もね、今振り返ってみると、雪菜いたのに無謀な選択たくさんしたし、こんな性格だから言う資格はないかもしれないんだけど。すぐイエスかノーで答えを出すんじゃなくて、そこに『今は答えを出さない』──そんなあいまいな選択肢があってもいいんじゃないのかな」
「うん、そうだね。ありがとう。何でも訊いていい?」
「いいよ。何?」
「お母さんが、生まれて来てよかったって思ったときはいつなの?」
「そんなの、雪菜が生まれた日に決まってるでしょ」
「そうなんだ」
「だって、あなたは私たちの夢なんだから」
「夢?」
「そうよ。一回しか言わないから、よーく聞くんだよ?」
「うん」
「いつか折を見て話そうと思ってたんだけどね、お父さんとお母さん、自然妊娠できなかったの」
「知らなかった……大変だった?」
「大変よ〜。検査も苦しかったし、保険きかなかったから、いつまで持つんだろうって真っ青になったし、」
と伊澄は軽い調子で言ったけれど、優しい目ながら深い声になって、
「でも一番大変だったのは、ストレスから不妊うつになったことかなあ」
「そんなことあったの?」
「そうなのよ。思い出すだけでも、うっ、となる」
「苦しいの?」
「苦しいの一言じゃ足りないよ。まず排卵日に合わせて性行為しなきゃいけないんだけど、誰かに命令されてやらされているみたいに思えてみじめで仕方ないのよ。それだけならまだ何とか耐えられるけど、何回が繰り返しているうちにそれにも慣れちゃうんだよね。言いたいことわかるよね?」
雪菜がこくりとうなずくと、
「ロボットみたいで、やっぱ私変なんだろうな、って自分を責めちゃってね、そして検査の結果を聞いたら絶望よ。自分のすべてを否定されるように感じなの」
「全部を否定される気持ち、なんとなくだけどわかる」
「伝わる?」
「うん」
「その日は何もする気が起きないの。お通夜みたいな空気のままよ。でも次はきっとうまく行くよ、がんばろうって、お父さんと励まし合って、かろうじて明日に希望をつなぐの。でもねえ、やっぱり同じ結果なの! ずっとその繰り返し! 本当に神様っているの? って思うくらい地獄の日が続くんだよ」
母はまくしたてるように言ったけれども、急に恥じるように視線を落として、
「いつのまにかね、妊婦や赤ちゃんを見るたびに妬んだり、今すぐあの親子に不幸が起きてほしいと願うようになっちゃったりね。私はいつからそんな心のせまい人間になってしまったんだろう、って自己嫌悪」
「うん……」
「なんであんたがしょげてるのよ」
「だって、お母さんの気持ちが入ってきて……」
「でも安心して。妊娠がわかったときにはそれが全部吹き飛んで、お釣りまで来るんだから。私、鉄仮面みたいな女医さんに抱きついちゃったのよ。いつもきつい言葉かけてくる人だったから、『しまった!』って思ったんだけど、先生はじめてほほ笑んでね、『おめでとうございます』って。その笑顔を見てね、ああ、本当に生まれてくるんだ、って泣いちゃった。やっぱり神様はいるのよ」
「さっきと真逆のこと言ってる」
「私はね、いるといないの中間がいいの」
と母はらしくないことを言った。
「どうして?」
「だってどっちにでも行けるじゃない」
「そっか……」
「それだけ?」
「ううん。違うの。何て言っていいのかわからなくて……」
「感じたままに言っていいのよ」
「うーん……やっぱり言葉が出てこない」
伊澄は目元をゆるめて言った。
「だからあなたは『雪菜』という名前なのよ」
「お母さんが雪が好きだから、『雪菜』って付けたんでしょ? ずっとそう言ってきたじゃん」
「そんな理由で名前決める親なんているわけないでしょ」
雪菜は怪訝な目を向けた。
「ねえ、知ってる? 『雪菜』っていう雪の中で育つ珍しい野菜があるの。食べるとね、最初はほのかな甘みがあるんだけど、そのうちふわっと苦みが広がってくるの。栄養もあって、お浸しや味噌汁にしても絶品なのよ。あなたは数々の試練を乗り越えて、私たちの元に来てくれたじゃない。お父さんも私もその想いをあなたの名前に込めたかった。もう十七年も生きてきたんだから薄々気づいていると思うけど、人生ってうまく行かないものでしょ。きっとそれが普通なのよ。だからね、どんな時でも忍耐強くひたむきに育ってほしい。うまく行かなくてもいつかは……いつかはあなたにしか咲かせられない花を咲かせてほしい。そう願って『雪菜』に決めたのよ」
心臓を錐でねじ回されるような鋭い痛みが走った。雪菜の頭に浮かんだのは、両親の想いを踏みにじった言葉だった。悪意はない。子どもながらの無垢な言葉だった。
これまで父の死と向き合おうともせず、無関心な態度を見せたかと思えば、自分勝手な発言をして母を傷つけた。それなのに「私たちの夢」と言う母に雪菜は気持ちを抑えられなくなった。
「私、自分の名前好きじゃない、っていろんな人に言っちゃった。六月生まれなのに雪菜って変でしょ、って。知らなかったの……お父さんとお母さんがそこまで想ってくれてたなんて。それにお父さんのこと、ずっと無責任だって……」
「そんなこと気にしないってば」と伊澄は雪菜の肩を引き寄せた。
「ねえ。こういうこと考えたことある? お父さんはそうだったし、もちろん私もそうだけど、雪菜が生まれてから死ぬまでずっと一緒にいられるわけじゃないよね。晴れの日も雨の日も、うれしくて舞い上がった日も、悲しくて泣いた日も、ずっとそばにいてくれるのってさ、名前だけなんだよね。だから親は子どもにね、『生まれて来てくれてありがとう』という気持ちを込めて、一番最初に一番大事なプレゼントを贈るの。ほかの誕生日とは比較にならないくらいのね。この世にあなたの代わりはいない。あなたはみんなに望まれて生まれてきた。それだけは忘れないで生きてほしいなあ」




