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遅刻魔は雄弁に時間を語る  作者: カルガモ丼
遅刻魔の見た時間
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33/35

クリスマスメサイア

 開演時間が近づきオーケストラと合唱隊が入場した。

 指揮台を中心に扇形に並んだ弦楽器、その後ろに管楽器やパイプオルガン、そして左右に分かれた混声合唱団とつづいた。オーケストラは自前のスーツやドレスのようだったが、合唱隊は衣装をそろえていた。

 雪菜が圧倒されたのはその人数だった。ステージにあふれんばかり、肩も触れそうなほどで、全部で二百人近くいるだろうか。今日のコンサートで一番目立つのは自分だと言わんばかりの闘志を目に秘め、今か今かと開演を待ちわびているように見えた。

 定刻になった。大ホールに満ちていたざわめきが潮のように引いていく。最後の雑音がシャボン玉みたいにぷちっと弾けると、ソリストと指揮者が入場した。彼らは大きな拍手で迎えられた。

 指揮者は天然パーマのなで肩をした男性だった。その頼りなげなたたずまいにこんな大人数をまとめられるのだろうかと雪菜は心配になった。ところが彼が会釈すると会場の緊張がほどけ、台にのぼって指揮を構えるとオーケストラも合唱隊も顔が締まった。プロとはかくあるものかと雪菜は目を見張った。

 はじまりのシンフォニーのあとテノールが独唱した。歌詞の日本語訳が電光掲示板に表示されている。開演前は演奏だけでどの場面かわかるか不安だったけれども、これなら難なくストーリーを追えそうだ。

 しっかり予習したおかげもあって第一部はキリストが誕生する場面だとわかっていた。

 ソリストの伸びやかなアリアが心地よい。ヴァイオリンは弦が切れないように優しく弾いていたかと思えば、蛙が跳ねるように軽やかな音を出した。メシア誕生の機運が高まっていく過程が手にとるようにわかった。

 パイプオルガンの格式高い音が鳴った。雪菜の頭に幻の蝶が迷い込んだ。かつて合唱団で訪れた教会の、香料の焚かれた匂いがよみがえった。

 第二部になった。牧歌的な雰囲気から一転、イエスが迫害される場面に変わった。

 ソリストや合唱隊は拷問を受けているような苦悶の表情を浮かべて歌った。オーケストラ奏者は短く音を切り、まるで軍隊が行進するかのように弾いた。

 鞭で打たれ亡くなるイエスに自分たちにできることは限られていると雪菜は思った。傍観者として静かに見守るだけだ。その無力さに悪事に加担するやましさを覚えた。イエスが背負う十字架は物語の中の出来事に過ぎないのか、それともこの物語を見ている自分たちにも及ぶものなのか。

 オーケストラが死の旋律を奏でると、受難の苦しみが雪菜に乗り移った。和子が眼鏡の下に指を差し込んだのが見えた。反対の勝利に目をやると、彼はぐっとこらえるように鼻を押さえている。まるで聴衆がそれぞれ物語に意味をつけて、自分自身と向き合っているようだ。

 キリストが復活すると、「ハーレルヤ! ハーレルヤ!」の大合唱がはじまった。テレビでもよく耳にするコーラスだった。

 第三部になった。ラッパが華やかなメロディーを奏でた。キリストのおかげで死に対する勝利宣言がなされたのはつかめたけれども、キリストの復活と信仰に関する歌詞が多く、理解できないところもあった。それでもテノールとアルトの『メサイア』唯一のデュエットは圧巻だった。

 フィナーレはフーガ形式の「アーメン」の合唱だ。神への賛美が繰り返された。無宗教の雪菜でさえいつしか幸福感に取り込まれていた。

 演奏が終わり指揮者が手を下ろした。地下に巣食う巨獣が雄叫びを上げるような拍手が湧き起こった。

 圧倒的なものに出くわしたとき語彙力が壊れてしまうらしい。雪菜は「すごいもん、見ちゃった……」という感想しかなかった。

 コンサートが始まり終わるまでの時間の絶対的な支配が終わった。雪菜は深く椅子にもたれた。ずっと気を張っていたのだろう。この疲れをしばらく身を宿しておきたいような甘い虚脱が気持ちよかった。

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