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遅刻魔は雄弁に時間を語る  作者: カルガモ丼
遅刻魔の見た時間
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色のない視線

 開場時間になり三人は「コンチェルト・ノスリ」に入った。

 贅沢ぜいたくを極めた装飾はさながら大聖堂のようだった。エントランス付近の床は大理石だったが、そこから大ホールに向けてコバルトブルーのカーペットが敷いてある。天井からシャンデリアが吊り下げられている。檸檬れもん色に見えたり琥珀こはく色に見えたりとパーツの一粒一粒が異なって見え、まるで意志を持っているようだ。

 エレベーターで二階に行き、唐草模様のドアから大ホールに入った。木材とペンキの融合した工事現場のにおいが鼻になだれ込んだ。

 会場はAブロックからGブロックまであった。三人の席はBブロックの最後列だ。二階席と聞いたときにはきちんと見えるか心配だったが、ステージが高く設置されているため、演奏者の顔がしっかり見えそうだ。

 座席最後列の端の席だけ一八〇度回転できる造りになっていた。近くに車いすを置けるスペースがあった。ここが和子の席だった。

 勝利が車いすにブレーキをかけた。和子を座席へ移動させるのだろう。彼は和子と同じ視線になるくらい腰を落とし、和子は彼の首に腕を回した。

 呆然と立ち尽くす雪菜を和子が隣に招いた。和子の隣にはいつも勝利がいた。二人の間に入るのははじめてだ。

 しばらく話していたら、

「携帯切らなきゃね」と和子がバッグからスマホを取り出した。彼女の気がそれるのをうかがっていた雪菜は勝利に、

「全部で何席くらいあるんでしょうかね。三千……四千くらいですかね」と話しかけ、

「そう言えば、いつもS席で見ているんですか?」と小声で訊いた。

 勝利は決まりの悪い顔をしたが、和子から隠れるようにして雪菜に耳打ちした。

「えっとね、S席以外にも車椅子席はあるんだけど、ちょっと問題があってね……」

 勝利にうながされ、雪菜は二階席のDブロックを見た。Dブロックはステージから一番遠い場所にある。

 雪菜の目に飛び込んできたのは有刺鉄線のような光景だった。

 座席最後列の背後にある柵に張りつくように車いすの人が並んでいた。彼らの背が丸まっているせいか、柵の横棒はちょうど彼らの目の前にあった。故意に彼らの視界を塞いでいるように見える。そう、まるで未成年犯罪者の顔写真のように! あれではコンサートに集中できなさそうだ。

 このとき雪菜はわかってしまったのだ。和子がそこに加わらないように勝利が毎年S席を買っていたことを。

 コンサートにはたくさんの人がやってくる。車いすか否かにかかわらず、観衆は個を重視されるわけではない。それは雪菜も理解している。仕方ないと思っている。差別なら怒りに任せて足元の石をひっつかみ投げつけられるけれども、これは差別ではない。効率を重視しただけの、悪意のかけらもないコンサート運営に違いないのだ。たとえそれが障碍しょうがい者に現実を見せつけるものだとしても。

 雪菜はぐっと下唇を噛んで耐えていたが、和子の屈託ない声が耳に入ると嗚咽が漏れ、何も言わず席を外した。

 ホワイエは眩暈めまいがしそうなほどの人いきれだった。ジュースでも飲んで落ち着こうと思った。

 人の間を縫うように歩いている間も、勝利に介助される和子の姿が頭から離れなかった。暗闇で焚かれたカメラフラッシュのごとく雪菜の心に焼きついているのだ。

 雪菜は和子と親しく付き合ってきた。百人一首の話ができるのがうれしくてなついていたけれど、きちんと彼女を見ていたのだろうか。和子が車いす生活をしているのでさえ、彼女の一部としてしか考えていなかった。あんなに長い時間一緒にいたのに、ちょっとでも頭を働かせたらわかったはずなのに、和子の生活の大変さを想像したことすらなかった。火山灰が降り積もるがごとく自責の念が増していく。

 今見ているこの景色は和子の目にどう映るのだろう。雪菜はゆっくりその場にしゃがんだ。

 見慣れた光景より五、六十センチ低い世界。目の前を行き交う人々は雲の上までそびえる壁のようにも、また助けを乞う雪菜をあざ笑う捕食者のようにも見えた。わざとぶつかった意地悪な人もいた。いくつもの視線が雪菜を見下ろす。冷たい視線もあったが、ほとんどは色のない視線だった。

 和子の世界が今雪菜の目に映っているものと同じかどうかはわからない。それでも車椅子生活が始まったとき、言葉を失うほど悲しい思いをしたのは想像にかたくない。和子はこの現実を受け入れるまでどのくらいの時間が必要だったのだろう。どれほどの涙を流したのだろう。なたで殴りつけられたような激しい痛みが体を駆け抜ける。

 沈んだ顔を見せまいと深呼吸をしてから大ホールに戻った。勝利は席を外していた。和子はきょろきょろしていたけれど、雪菜と目が合うなり顔をほころばせて、

「どこ行ってたの?」

「長丁場なのでお手洗いに」

「途中でも休憩あるから大丈夫よ」

「あ、そうなんですか」

「うん。そうだ、『メサイア』聞いてみた?」

 雪菜は和子から、楽団によって雰囲気が変わるから予習したら楽しめるよとアドバイスを受けていた。きちんと勉強してきたと示したい気持ちから、

「はい。繰り返し聞きました。メサイアってオラトリオなんですよね。最初はなんのことだろうって思いましたが、オペラから演技、舞台装置などをのぞいたものだとわかって、すっきりしました。あとですね、レチタティーヴォ、アリア、コーラスの違いが説明できるようになりましたよ」

 雪菜の見た解説動画はどれもこの三つを説明をしていた。ヘンデルの『メサイア』の全体像を知るにはこれらの違いを押さえるのが必要だという。語るように朗唱するレチタティーヴォ、ソリストが情感たっぷりに歌い上げるアリア、そして合唱を意味するコーラス。おおむね順繰りにやってくるらしい。雪菜はこれらの切り替えが映画の場面転換のように機能しているととらえた。

「すごいじゃない!」

 和子は無邪気に雪菜をほめた。

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