銀杏並木のキクイタダキ
海秋沙駅で降りて待ち合わせ場所に向かうと、すでに七條夫妻が待っていた。和子は若芽色のドレスに白のジャケットを着て、薄く口紅を差していた。勝利は錫色のスーツだった。いつものポーチではなく革のバッグを持っていた。
魚鷹駅に着いた。雪菜はエレベーターで地上に出るなり、
「今日は私にさせてください」と車椅子を押した。
雲一つない快晴で空がいつもより高く見えた。頭上をムクドリがかまびすしく通り過ぎた。駅前広場は家族連れやカップルなどたくさんの人でにぎわい、女子高生が噴水の縁に座り鳩にパンをあげている。なんだかルノワールの絵画に迷い込んだみたいだ。
勝利が言った。
「小春日和だねえ。あと一、二週間もすれば、ここもクリスマスのよそおいを始めるのかな。昔はね、街を歩いてたら『クリスマス・イブ』が流れてきて、ああ、冬になったなあ、と感じたものだよ」
和子が首を回して、
「雪菜ちゃん知らないでしょ? ワムの『ラスト・クリスマス』なら知っているのかしら」
「どちらも知っていますよ。この時期になると、デパートやスーパーでも流れますよね。クリスマスソングではマライア・キャリーのも有名ですよね」
雪菜が車いすから顔を出して答えると、
「ああ、懐かしいねえ」と和子は昔を思い出すように目を細めた。
「山下達郎のは勝利さんと和子さんの青春ソングですか?」
「いや、もっと後だよ。香織、小さい頃から吹奏楽やってたんだよ。たしか小六……だったかな、ソロ弾いた曲だからよく覚えているよ」
勝利の言葉に和子は首をかしげて、
「違うでしょ。その曲が流行ったとき、あの子はもうセーラー服を着てたわよ。だって勝利さん、帰りが遅くて、もしかして恋人できたんじゃないかって心配してたじゃない」
「ええ〜、そうだっけ?」
雪菜は以前和子がしてくれた金婚式の話を思い出した。五十年──長い時間だ。記憶違いがあるのも生活の一部なのだろうか。そんなことを考えている間も七条夫妻は自分の方が正しいと小競り合いをしていた。二人の記憶にそれぞれ根拠があるのがおかしい。雪菜は忍び笑いをした。
しばらく進むと前方に銀杏並木があった。
「少し遠回りになっちゃいますけど、あそこ通りましょうよ」と提案し、三人で黄朽葉色のじゅうたんを歩いた。
幼稚園生くらいの男の子が自分の顔が隠れるほどの葉をつかみ、ジャンプしながら空に投げていた。
中央に差しかかったあたりで風が吹いた。銀杏がざわめき、神主が大幣を振るような音がした。幾枚かの葉が落葉するのを雪菜は車いすを押すのも忘れて見惚れた。そんな雪菜の目にとまったのは出遅れたかのように降ってくる一枚の黄葉。それは陽をまとい、ひらひら舞って、いたずらっ子のように和子の頭に乗った。
「あっ……」
和子は身を乗り出していたから、自分がキクイタダキみたいな姿になっているのには気づいてなさそうだ。
勝利と目が合うと、彼は静かにほほ笑み、そっと人差し指を口に当てた。三人のまわりだけ時間が止まっているみたいだ。昨日より優しくなれた気がした。
銀杏並木を抜けたとき雪菜は思い出したかのように、
「そうそう。実はですね、今日お弁当作ってきたんです。外で食べませんか?」
和子は目を丸くして、
「作ってきてくれたの?」
「はい。でも作り過ぎてしまいまして……。多かったら無理しないで下さいね」
河口近くのテーブルベンチが空いていた。雪菜はお弁当を広げて二人に割り箸と紙皿を渡し、紙コップに麦茶を注いだ。
お弁当のコンセプトは七條夫妻がノスタルジーを感じるおかずだった。梅しそおにぎり、おかかおにぎり、卵焼き、タコさんウインナー、ちくわの磯辺揚げ、前日の残りのきんぴらごぼうのほかに、見た目を整えるためのトマトとブロッコリーも入れた。
雪菜は二人が何から食べ始めるか観察した。勝利は梅しそおにぎりを、和子はきんぴらごぼうを食べた。雪菜の予想は片方は当たり、片方は外れた。
勝利が訊いた。
「伊澄さんに手伝ってもらったの?」
「いえ、一人で作りました。普段から夕食は私が作っているんですよ」
「ええっ、ほんと?」
「はい。本当ですよ」
「へえ。すごいねえ」
「でも私、応用力がないんです」
「ん? どういうことだろう」
「レシピを見ればたいていのものは作れると思います。もちろん味見しますけど、少しだけ醤油足してみよう、試しにみりん加えてみようみたいに、調味料の配合は苦手なままなんですよね。他人の作った味の再現はできても、自分のイメージする味は出せないんです。母から聞いたんですけど、昔は一冊の料理本を徹底的に研究して感覚を磨いたり、時には冒険しながら料理していたみたいなんです。つまり、下積みがあるわけですよね。でも私の使ってるレシピサイトでは、投稿している人はばらばらですし、体系立てて載っているわけでもない。完成度も高いので分量を守っていれば絶対に失敗しないんです。大事なのは、頭を使わずに真似することなんです。だからわかるんですよね。私、料理人にはなれないなって」
「そんなことないわよ。すごくおいしいよ」と和子はかばってくれたが、
「いえ。その差は私が一番わかっているんです」
勝利は見守るような笑顔で、
「雪菜ちゃんってたまにびっくりするくらいクールになるよね。それも百人一首のおかげ?」
「どうでしょうか」
「きっと便利になった証拠だろうね。夕食のメニューは雪菜ちゃんが決めてるの?」
「はい。和食、洋食、中華の順番で回しています。迷ったら母に相談します。母は管理栄養士なので、高カロリーのものばかり作ってたら、魔王ルシファーになるんですよ」
雪菜は人差し指を角に見立てて、二人を順に見た。
和子は小さな笑みを浮かべて、
「ちくわの磯辺揚げなんてどこで覚えたの?」
「小学校の運動会のとき、母が作ってくれたんです」
「思い出の一品なのね」
「ん! この卵焼き甘くて美味しい!」
勝利にうながされ、和子は卵焼きを小さく切って手皿で食べた。
「これ、どうやって作ったの?」
「卵に醤油と砂糖と出汁を入れて、三回に分けて焼きました」
「一品一品手が込んでいるのね。形もきれいだし、ふわふわで美味しいし」
食後に勝利が缶コーヒーを買ってきてくれた。日光浴とそよ風を楽しみながら三人で話をした。
河口では鴨が泳いでいた。全部で五十羽近くいるだろうか。雪菜は七條夫妻の話に耳を傾けながら、ライファーとの出会いに胸を踊らせていた。川面に映る太陽は無数の真珠がゆらゆら揺れているように見えた。キンクロハジロかスズガモか見分けられずもやもやした。




