ヘンデルと周防内侍
この日もリーベに足を噛まれて目を覚ました。いつもより強い力だった。枕元のスマホを探るともう六時。冬が近づいてリーベもねぼすけになっているようだ。
彼を送り出してから雪菜は机の封筒を取った。チケットには「S席」と印字されている。この文字を見るたび、まるで鬼教官に敬礼でもするように、びっと気持ちが引き締まる。高額なチケット代を払ってもらうのだからわからないうちにコンサートが終わっていたなんてことがあってはならない。
本日演奏されるヘンデルの『メサイア』は二時間半にも及ぶ大作だ。雪菜は数日前から繰り返し聴き、全体像を解説できる程度には詳しくなっていた。
キリストについての雪菜の知識は学校教育の範囲におさまる。イエス迫害の群集心理やキリスト復活は理解できません、受けつけませんと突き放すような視線を向けるばかりだ。ところが受難の場面では胸が詰まるし、気が昂り正義感の強い日には涙もこぼれる。矛盾する二つの感情が争うことなく共存している。
雪菜は最後の仕上げとしてもう一度通しで聴いた。
開演は午後一時なのに、どういうわけか待ち合わは三時間前だ。調べたところ、海秋沙駅から会場のある魚鷹駅まで四十分あまりで、駅からコンサートホールまで十分もかからない。移動時間に余裕をもたせても二時間は余る。悪い予感がした。これ以上お金を出してもらったら、七條夫妻と目を合わせられなくなってしまう。そわそわ部屋をうろついた。あれこれ気づくたび、雪菜の朝はあわただしくなる。
和子によると、オーケストラコンサートにそぐわない恰好だと入場を拒否される場合もあるらしい。雪菜はナチュラルメイクに抑え、フォーマルブラウスなど落ち着いた服装を選んだ。
準備を終えてもまだ出かけるには早い時間だった。百人一首でも読んで時間をつぶそうと思った。気持ちが浮ついているからだろう。これまで気にも留めなかった歌が目についた。六十七首目の周防内侍の歌である。
──春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなくたたむ名こそ惜しけれ
(春の短い夜の夢のように儚い、あなたの手枕を借りたばかりに、つまらない浮き名が立ってしまうのが口惜しいのです)
雪菜はまず歌の背景に着目した。
陰暦二月の月の明るい夜。女房たちは夜通しおしゃべりをしていた。眠くなった周防内侍が「枕がほしいなあ」とつぶやくと、御簾の下からすっと手が出てきた。手を差し出したのは道長の孫である藤原忠家。そこで彼女が詠んだ歌である。
雪菜は和歌と対話するようにじっと見つめた。まず気づいたのは前後で詠み人の気持ちが変わっていることだ。上の句では「春の夜」「夢」「手枕」と甘い言葉が並ぶ。これに対して、下の句では浮き名が立つのをきらう現実的な対応に変化する。前後で詠み人の気持ちが対極なのがひっかかる。
音の力を借りれば何かわかるかもしれない。上品な洋装に引っ張られていつもより心を込めて朗詠している自分がおかしかった。
気づいたことがあった。夜通し物語をしたり、御簾から手を出す行為は平安時代ならではのものだろう。背景を読んでいると、この時代は妙なことをしていたものだと、どこぞの村の古いしきたりを見るかのように線を引いていた。しかし、空想を好んだり恋の噂が立つのを避けたい気持ちは高校生の雪菜も共感できる。
「もしかして!」
思うに任せて学習済みの歌を引いたら、知恵の輪がするっとほどけたような発見があった。なんと大伴家持の『かささぎの渡せる橋に置く霜の』も源俊頼の『憂かりける人を初瀬の山おろしよ』も同じ特徴があったのだ。一方では当時の慣習や生活など時代を描き、他方では千年の時を経ても共感できる人間の普遍的な姿を描いている。
雪菜はこれまである疑問を抱いていた。それは和歌の世界を現代の価値観で評価していいのかということ。そんな疑いを持ちながらも雪菜には評価の尺度がその一つしかなかった。しかし『メサイア』も周防内侍の歌も「時代性」と「普遍性」から構成されているとなれば、攻略法も変わるのではないか。今なら攻めあぐねていた図形問題を解決できるような補助線がぐいっと引けそうだ。永久凍土かと思われた悩みが気まぐれに差してきた陽光によって氷解し始めたような感動があった。
ウォームアップが終わって集中力が上がり始めたのに、出かける時間になってしまった。
雪菜は赤ペンで二つのキーワードを書き留め、部屋を飛び出した。




